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2023.07.21

「ボロ買い一郎」と呼ばれた根津嘉一郎

日本の近代を作った甲州人のひとりの根津嘉一郎(ねづ かいちろう)は万延元年(1860)山梨郡正徳寺村(現山梨市)の地主の家に生れ、村議、県議を歴任し34才で村長となりました。

この頃に甲州財閥の元締めともいえる若尾逸平の知遇を得て将来性のある「乗り物」と「灯り」、つまり鉄道と電力株への投資を始めます。

これだけなら単なる投資家で終わったかもしれない根津に事業経営を勧めたのが、これまた甲州財閥の大物「天下の雨敬」こと雨宮敬次郎でした。雨宮の「事業は政治よりも生命がある」という言葉に心を動かされた根津は事業家として歩みだします。

後に「鉄道王」の異名をとることになりますが、根津のスタイルは経営の傾いた会社の株を買い会社を再建するところにありました。そうしたことから「ネヅカイチロウ」をひねって「ボロカイイチロウ」つまり「ボロ買い一郎」とも言われていたそうです。

それでも多くの鉄道会社だけでなく、生命保険や電力といった公益性の高い事業を手掛けたのは、やはり根津の事業に対する哲学があったといえると思います。

山梨市にある根津の実家は根津記念館として公開されていますが、そこに展示されている甥に宛てた手紙の中にこんな一節があります。「人間ただ生まれて食って死ぬだけでは鳥虫と同じ。私は何か社会のために尽くして生涯を終えることこそ第一と信じている」

そんな言葉のとおり事業だけでなく旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学のルーツ)の設立や、山梨県教育会附属図書館(のちの県立図書館)の建設や山梨県下の小学校へのピアノや顕微鏡、人体模型の寄贈など、次代を担う若者の教育にも力をいれました。

中でも県民にとって印象に残っているのは根津ピアノでしょう。私も大正3年生まれの祖母から根津ピアノの話を聞いたことを微かに記憶しています。確か祖母の通っていた小学校に根津ピアノがあったという話だったと思いますが、今となっては確かめる術もありません。

また芸術への造詣も深く、根津のコレクションを基に東京の青山の私邸に創られたのが根津美術館です。国宝7件、重要文化財87件を含む日本と東洋の美術品を約7,400点保有しています。有名なところでは尾形光琳の国宝 燕子花図屏風です。これは毎年4月から5月にかけて1ヶ月限定で公開されますが、ちょうど庭の燕子花も花開くころで東京の中心地とは思えない贅沢な時間を満喫できます。