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2023.08.19

地下鉄の父 早川徳次(その2)

もうひとつのエピソードは建設資金にまつわるものです。資金調達に行き詰っていた早川の元にアメリカの投資会社から巨額融資の話が舞い込みます。そこの社長が来日し、地下鉄計画を聞き現地も確認し融資がほぼ決まりました。その社長が帰国の日が大正12年9月1日(1923)、そうですあの関東大震災のまさにその日でした。社長が船に乗り横浜の桟橋を離れる瞬間に関東大震災が発生します。社長は慌てて下船。東京の被害の大きさに息をのみ融資の話は白紙になってしまったそうです。まったくもって人生いつどこで何があるのか分かりません。

さてアメリカの投資会社からの資金が当てにできなくなったうえ震災により地下鉄への不安が広まり会社の株価も半減し、株主からは会社解散の声も上がるようになります。それでも早川の執念は途切れることはありませんでした。

そんなとき一人の取締役が手持ち資金で出来る区間だけでも作りましょうと提案します。実は早川の会社は浅草から上野・新橋を通って品川までの約11㎞の建設免許を受けていましたが、背に腹は替えられません。先ずは5分の1の規模での運行を目指すことになりました。しかしそれでもまだ資金不足は続きます。そんなときに大倉組(現大成建設)の創業者の大倉喜八郎が後払いでもよいという条件で工事を請け負いたいと申し出たのです。後に大倉は日本初の地下鉄で困難を伴うだろうが困難だからこそ請け負いなさいと指示をしたと回想しています。

開通式での早川徳次(左より3人目)

資金集めについてはこんな話もあります。これは上野から先の話ですが神田と日本橋の間に設ける駅名は『本石町』とする予定でした。そこへ地下鉄の将来性に目をつけた三越百貨店が駅の建設費を全て負担するから駅名に店の名前を入れるよう要望してきたため『三越前』という駅名になりました。これは我が国初の命名権(ネーミングライツ)契約だとも言われています。

その他にも地下商店街の開設やデパート巡り用の切符の販売など斬新なアイデアで乗客確保を行います。また設備の面では燃えにくい金属製の車両や自動列車停止装置(ATS)、駅ではターンスタイル式の自動改札の導入、さらには駅員の制服にも新しい時代を切り拓く心意気が現れるデザインにしたそうです。

当時のポスターによそ行きの服を着てホームで地下鉄を待つ家族連れが描かれています。今見てもなかなか良いセンスだと思いますが、当時の人にとっては憧れの華やかな生活を思い描かせることが出来たのではないでしょうか。このように早川は信念に燃えるだけでなく、時代を先取りしてビジネス感覚も持ち合わせていました。

順調にスタートしたかのように見えた早川の地下鉄事業ですが、最後は東急の五島慶太との経営権の争いに破れ自分が立ち上げた会社を去ることになります。早川は、郷里に戻り自宅の隣に将来を担う青年のための道場の建設を進めていましたが、昭和17年の晩秋に急性肺炎で他界しました。

建設予定だった青年道場の模型

生家跡地に建つ

青年道場の講師が寝泊まりする予定だった建物。

実は「そ」の札で取りあげた石橋湛山と早川は甲府中学の同級生で、石橋は早川が地下鉄構想について世の理解を得るために東奔西走していた頃よりペンの力で支援をしていました。石橋は「早川徳次を弔う」と題した記事でこのように書いています。

「もちろん早川徳次無くとも誰かがやがて地下鉄を敷いたであろう。しかし、それはコロンブス出でずとも誰かがやがて北米大陸を発見したであろうと言うに等しい。・・・・早川徳次の名は、我が国に地下鉄の走る限り残るであろう」

※このトピックスの写真はアイキャッチ画像の切手を除き、全て早川邸の見学会で撮影させていただきました。