2023.08.06
地下鉄の父 早川徳次(その1)
昭和2年(1927)の暮れも押し迫った12月30日に日本で最初の地下鉄が東京の上野~浅草間の2.2キロの区間で開通します。初日には10万人が押し寄せ、乗車時間わずか5分、徒歩でも30分の距離の移動のために1時間も並んだといわれています。
このとき世界では既に10を越える都市で地下鉄が運行していましたが、学者や技術者の間では「太古の昔東京は海の底だったから地盤が弱い」「地震の多い日本では地下鉄は無理」といった見解が大勢で、東京に地下鉄など出来るはずがないと誰もが思いこんでいました。
それでも東京の市電の混雑を解消し近代都市に相応しい交通機関を作りたいという理想に燃えた当時34才の一青年は独力で地質や地下水の調査を行い、会社を興し資金を集め、許認可権を持つ官公庁や株主を説得し、当初はわずか19枚の設計図のみで「とにかく着工する。工事をしながら図面を引く」という意思をもって、ほぼ10年で開業にこぎつけたのでした。後世「地下鉄の父」と呼ばれたその人物の名は早川徳次(はやかわ のりつぐ)。
明治14年(1881)山梨県御代咲村(現笛吹市一宮町)に生れた早川は政治の道を志し東京市長で南満州鉄道の総裁も務めた後藤新平に師事します。この頃から鉄道を通じて国作りに貢献したいと思うようになり、当時としては珍しく大卒でありながら一鉄道員として新橋駅の切符切りからスタートしたのでした。その後、前回紹介した根津嘉一郎の元に出入りするようになり30才前後で栃木の佐野鉄道や大阪の高野登山鉄道の立て直しに抜擢され見事にそれを成し遂げます。
しかし直属の上司との関係から根津の元を去ります。鉄道と港湾について学ぶために渡ったロンドンで地下鉄に出会います。実は早川は早大の出身でロンドン行きの費用を大隈重信にかなり援助してもらったようです。官費留学でもしない限り海外渡航が難しい時代に自らの想いを大隈に伝え実現したものでした。
ロンドンで地下鉄の必要性を痛感して帰国してから地下鉄開業に至るまでの波乱は書きつくせないほどありますが、ここではふたつ紹介します。
ひとつは大正6年(1917)に早川が苦労して鉄道院より地下鉄建設の認可を受けると、今まで地下鉄に見向きもしなかった会社が続々と参入申請をしてきました。このとき早川は次のように心情を吐露しています。
「私は日本の実業家の不人情に全く呆れ果てた、呆れたばかりでなく涙を流して憤慨した。・・・自費で外国に調査に行って帰り、血の涙で準備計画すること数年、漸く地下鉄道を出願したと思ふと、財力を背景とした当時錚々たる実業家達は知らぬ顔の半兵衛で、私の計画した地下鉄道の図面に添へた処の予定線をどしどし出願した。・・・孤軍奮闘、あらゆる苦闘を続けて、今ようやく成果を得んとする、その努力の結晶を爪の垢程も考へない、其の不人情、そして其悪辣さ・・・」(つづく)