ふるさと山梨の
風土・歴史を見つめて
子供達が楽しみながら
郷土のことを学び
先人の努力を偲ぶとともに
誇りと思いやりを持って
成長できる
力を養うことが
出来たらという
思いから
このかるたを作りました。
ぜひ「やってみるじゃん
甲州かるた」
を通じて
多くの方に山梨県のことを
知ってもらえたら嬉しいです。
河西貴史
やってみるじゃん
甲州かるたは
以下の方針のもとに
制作しています
読み札をクリックすると
絵札と解説をご覧いただけます。
世界でただひとつのかるたを
作って遊んでみよう!
PDFを印刷して厚紙などに貼ってください。
絵札には自分で好きな絵を書いてね。
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© 2022 やってみるじゃん甲州かるた
明日の元気は無尽から
あしたのげんきは むじんから
解説
山梨県の飲食店では「無尽歓迎します」といった看板を見ることがあります。無尽とは特定の仲間が資金を積み立てるために定期的に集まることで、地域によっては「頼母子講」とも呼ばれ、鎌倉時代より日本全国にあったといわれていますが山梨県では今も根強く残っています。
もともと庶民金融の性格が色濃く、仲間内で集めた掛金を毎月1人が取って、まとまった出費に充てます。例えば10人が1万円の掛け金を出せば毎月10万円の無尽金が集まります。それを「娘が今月出産するから」とか「テレビを買うから」といった事情に応じて順番に取っていきます。
ときには「これから毎月の掛け金を1万1千円払うから、今月どうしても10万円欲しい」という人も出てきます。そうすると後から無尽金を受け取る人は、当初予定していた10万円より多い無尽金を受け取ることが出来ます。そしてこの増えた分は利息ともいえます。
このように無尽は銀行が身近でない時代に庶民の金融システムとして機能していたのですが、最近では旅行のための積立無尽や単なる定期的な飲み会としての無尽が主流になりつつあります。
また山梨県の高齢者の健康寿命が長いのは、無尽のお蔭ともいわれています。それは・・・
市川三郷はハンコと花火
いちかわみさとは はんことはなび
解説
市川三郷町は甲府盆地の南、ちょうど笛吹川と釜無川が合流して富士川になるあたりの東側に位置します。
山梨県では江戸時代より北部の山岳地帯で発掘された水晶を用いたハンコづくりが行われていました。その中でも市川三郷町の旧六郷町一帯はハンコ業者が多いことで有名です。もともと六郷では農閑期に足袋を作り行商をしていましたが、明治になり機械化による大量生産品に市場を奪われていくなかで、新たな産業としてハンコづくりを始め、足袋の行商で培った営業力で販路を伸ばしていきました。
また明治6年(1873年)の太政官布告による印鑑登録制度により、庶民のあいだでもハンコの需要が高まったことも追い風となり、今では全国トップクラスのハンコの町になりました。ちなみにハンコと印章は同じ意味でいずれも手に取って押す物のことを指します。よく使われる印鑑というのは紙に押された印影のうち登録してあるものを指します。
もうひとつの花火は武田氏が活躍した戦国時代にそのルーツがあるといわれています。なぜならば・・・・
うるわしき 西沢渓谷 水さやか
うるわしき にしざわけいこく みずさやか
解説
日本三大急流の富士川を河口から遡ると甲府盆地南端で釜無川と笛吹川に分かれ、その笛吹川の上流にあるのが西沢渓谷です。秩父多摩甲斐国立公園の国師ヶ岳南面の森から滴る流れを集め、七ッ釜五段の滝をはじめとする様々な渓谷美を刻んでいます。
遊歩道は整備されているとはいえアップダウンもあり一周5時間くらいはかかるので、歩くときはそれなりの準備は必要です。
国道140号線の西沢大橋からしばらく林道を歩き、東沢との合流点にある吊橋を渡って西沢渓谷に向かい右岸に沿って歩くと恋糸の滝、貞泉の滝といった個性的な滝や紺碧の水を湛えた淵が次々に現れてきます。そして七ッ釜五段の滝を堪能しながら橋を渡り森林鉄道の廃軌道を戻ってきます。
また西沢渓谷は景色の移ろいだけでなく、四季折々うつりゆく姿もまた良きものです。紅葉の頃はもちろんですが・・・
縁あり 身延にいらした 日蓮さん
えにしあり みのぶにいらした にちれんさん
解説
鎌倉時代に日蓮宗を開いた日蓮聖人は61年の生涯のうち、晩年の9年間を山梨県の身延山で過ごし、法華経への信仰と弟子の教育にあたりました。
千葉県の房総半島の先端にある小湊で承久4年(1222年)に漁民の子として生を受け、16才のときに清澄寺で出家し鎌倉、京都、比叡山、高野山へ遊学。32才のときに日蓮を名乗り故郷の清澄山旭ヶ森より海に向かって南無妙法蓮華経を唱えここに日蓮宗が誕生したのでした。
聖人は当時の世の乱れを憂い『立正安国論』を著わし鎌倉幕府へ進言しますが、それを権力者への批判とされ、度重なる迫害や襲撃を受けたり、処刑寸前にまでなったこともありました。結局佐渡へ流罪となり3年後に赦されて鎌倉に戻って来た聖人を身延の地に招いたのが、当時身延山一帯の領主だった甲斐源氏の南部実長(波木井実長とも)でした。
忍野八海 富士の泉の 湧くところ
おしのはっかい ふじのいずみの わくところ
解説
富士山北麓の忍野村にある忍野八海一帯は、今でこそ富士山と日本民家が水面に映えることで海外にも知られるようになりましたが、その昔は宇津湖という湖でした。その宇津湖は延暦19年(900年)の噴火で山中湖と忍野湖に分断され、やがて忍野湖は干上がり、かつて湖底にあった富士山の伏流水を水源とする湧水が忍野八海として残ったといわれています。
八海は出口池、お釜池、底抜池、銚子池、涌池、濁池、鏡池、菖蒲池で構成されており、今でも銚子池の底では砂が動き、水が湧き出ている様子を見ることが出来ます。
また清浄な水を湛える忍野八海は江戸時代末期までは富士山を信仰の対象とする富士講の修験者の禊の場でもありました。特に出口池の水を携えて登ると・・・
鰍沢 舟が結んだ 歴史あり
かじかざわ ふねがむすんだ れきしあり
解説
海なし県の山梨で舟が物流を担っていた時代がありました。
富士川で人や物資を輸送する舟が広く用いられるようになったのは慶長年間(1607年頃)に徳川家康が京都の豪商角倉了以(すみのくら りょうい)に開削、つまり浅瀬や岩場を掘削して舟が通れるようにする工事を命じてからになります。
これによって富士川町の鰍沢から静岡県の岩渕までの70キロを陸路で2日かかったものを・・・
峡東に 国宝の寺ふたつあり
きょうとうに こくほうのてらふたつあり
解説
峡東とは甲府盆地の東の地域のことを指します。また国宝とは文化財保護法により国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち世界文化の見地から価値の高く、たぐいない国民の宝であると指定されたもので、山梨には5件あります。
まず柏尾山大善寺は真言宗智山派の寺院で養老2年(718年)に行基によって刻まれた薬師如来像を安置して開かれたと伝えられています。この薬師如来像は手に葡萄をもっていることでも有名で、この像が鎮座する本堂が国宝に指定されています。弘安9年(1286年)の建立で、天正10年(1582年)韮崎の新府城から大月の岩殿城へ落ち延びようとした武田勝頼はここで一夜を明かしています。
また幕末の戊辰戦争では板垣退助率いる新政府軍と・・・
クニマスは 西湖で生命 ながらえて
くにますは さいこでいのち ながらえて
解説
秋田県の田沢湖のみに生息していたクニマスは1940年代には絶滅しましたが、平成22年(2010年)に遠く離れた山梨県の西湖で発見されました。クニマスは一生を湖で過ごす魚で、昔は祝い事や病気見舞いの贈答品になるほど特別な魚でした。しかし1930年代に凶作が続くと農業用水の確保が優先され、酸性の川の水をいったん田沢湖に送り希釈して使用したため酸性の水では生息できないクニマスは絶滅したのでした。
それでも田沢湖の人々は500万円もの懸賞金をかけてクニマスを探しました。戦前に西湖と本栖湖にクニマスの発眼卵を送った記録があったので、これを頼りに田沢湖の漁師が本栖湖で漁を行いますが捕獲には至りませんでした。
しかし・・・
県民の 努力で撲滅 地方病
けんみんの どりょくでぼくめつ ちほうびょう
解説
山梨県で地方病というと甲府盆地において日本住血吸虫病という寄生虫によって発症する病気を指します。これは寄生虫が中間宿主であるミヤイリ貝を介して成長し、河川や田んぼの水から皮膚を通じてヒトや家畜の体内に入りこみ、肝臓障害を引き起こし、腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気です。
古くは武田家の家臣がこの病気特有の症状で亡くなったという記録があるので、甲府盆地の住民は400年以上前からこの病気の脅威にさらされていたことになります。
明治43年(1910年)の記録では有病地域の住民の11.4%が感染しており、中には住民の55%が感染している村さえあったそうです。
この病気の原因の究明のため自ら死後解剖を申し出た農婦や・・・
甲府を開いた信虎公
こうふをひらいたのぶとらこう
解説
山梨県の県都甲府市は500年以上前の永正16(1519)年に武田信虎によって開かれました。
武田信玄(晴信)の父親である信虎は過酷な治世によって家臣・領民からの人望を失い実子信玄によって追放されたため悪いイメージを持たれがちですが、この「かるた」では自らの戦略思想に基づき甲府という拠点都市を作りあげた都市計画者としての一面に光を当てました。
それまで武田家が居を構えていた甲府の川田町に比べ、現在の武田神社のある躑躅ヶ崎に構えた新しい館は水害の危険が少なく甲府盆地の動向を見渡せる利点がありました。また万一に備え背後の要害山には籠城のための城郭を、湯村山には見張りの砦を築き館の門前に家臣を住まわせることで城下を形成して現在の甲府の基礎を作ったのです。
この武田氏の館にピンチが訪れます。大永元(1521)年に駿河の今川勢が・・・
颯爽と ペダルこぎ行く 山中湖
さっそうと ぺだるこぎゆく やまなかこ
解説
富士五湖最大の面積を持つ山中湖は昭和初期より避暑地として多くの人が訪れるようになりました。湖でのボート遊びや釣り、テニスに並んで人気があるのがサイクリングです。山中湖村もサイクリングロードの整備に力をいれており、今では湖畔の8割に専用サイクリングロードが通っています。富士山を見ながら家族や友人とのんびりサイクリングするのは快適です。
山中湖は2020東京オリンピック(延期のため開催は2021)では自転車競技のコースにも選定されました。当初は皇居外苑をスタートして東京西部での周回コースを走る案があったようですが・・・・
首都圏の水を育む 道志、丹波山、小菅村
しゅとけんのみずをはぐくむ どうし たばやま こすげむら
解説
生命の源である水は豊かな森が生み出しています。
道志村は山梨県の南東部にあり、どこに出るにも交通の便がよいとは言い難い人口1700人にも満たない山村です。そんな道志村に大正時代から横浜市の職員が常駐していると聞くとビックリするのではないでしょうか?
なぜならば・・・
硯と和紙も 名産品
すずりとわしも めいさんひん
解説
現代では硯や和紙を使うことはあまりないかもしれませんが、このふたつは日本の伝統文化を形作って来た道具として欠かせないものといえます。
山梨における紙の歴史は深く、天平勝宝8年(756年)の正倉院文書には、甲斐の国より紙の原料となる麻が納められたという記録がありますが、特定の地名はありませんでした。
現在、山梨には身延町の西嶋と市川三郷町の市川大門という、ふたつの和紙の産地があります。西嶋には全国的にも珍しい和紙作りの伝統に触れることができる「西嶋和紙の里」という施設があるのですが、そこには「夢」と書かれた西嶋和紙が展示されています。
いったいこの書は誰がどこで書いたのか?調べてみると、なんと宇宙空間で無重量の状態で書かれたことが分かりました。これを書いたのは・・・・
世界に誇る 富士の山
せかいにほこる ふじのやま
解説
日本最高峰の富士山は、古来より詩歌に詠まれ、絵画や写真など芸術の対象になってきました。また近年では桜の季節に富士吉田市の新倉山浅間公園の忠霊塔と共に写る富士山は日本を代表する風景として広く外国にも知れ渡っています。
ところで、富士山に最初に登った人物は誰なのでしょうか?聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って空を飛んで登頂したとか、飛鳥時代の修験者の役小角(えんのおずぬ)が流刑先の伊豆大島から海の上を歩いて渡って登頂したという話が伝わっていますが、いずれも伝説の域を出るものではありません。
実は最初の登頂者が誰であるのかハッキリ分かってはいないのですが、平安時代の貴族、都良香(みやこのよしか 834~879)が著わした『富士山記』には実際に登頂しない限り分からない風景が記されているので、少なくとも9世紀には登られていたことは確実だといえます。
その登頂しなければ分からない風景というのは・・・・
総理になった 石橋湛山
そうりになった いしばし たんざん
解説
石橋湛山(明治17年(1884)~昭和48年(1973))は生まれこそ東京ですが、父親が山梨県南巨摩郡増穂村(現富士川町)出身であったため、1才のときに山梨に転居、現在の甲府市立湯田小学校など幾つかの小学校を転校し、甲府中学(現甲府一高)を卒業するまで山梨で暮らしていました。
第55代内閣総理大臣として昭和31年(1956)に任命されましたが、残念ながら健康上の問題から僅か2ヶ月で総理を辞任しています。これは憲政史上4番目の短命内閣であり、湛山自身一度も国会で演説や答弁ができなかったため、総理としての力量は未知数のままでした。
それでも湛山の評価が今も高いのは・・・
タワーといえば 内藤多仲
たわーといえば ないとうたちゅう
解説
東京タワーを設計し「塔博士」と言われた内藤多仲は明治19年(1886)に山梨県南アルプス市に生まれ、甲府中学から東京大学に進み建築学科で鉄骨構造の研究を行いました。
アメリカに留学したときに、旅行トランクに目一杯荷物を詰めようとして仕切り板を使わず壊してしまったことから耐震構造のヒントを得て研究を重ね「架構建築耐震構造論」を発表して工学博士となります。
関東大震災では多仲が設計した日本興業銀行などの建物には被害はなく、その理論が優れていることが証明されました。大正14年(1925)にラジオ放送が始まると多仲は毎年のようにラジオ放送塔の設計を行い、戦後はテレビ放送用のタワーの設計に携わり名古屋、別府、札幌で建設されますが、その集大成といえるものが・・・
地域と歩む サッカーチーム ヴァンフォーレ
ちいきとあゆむ さっかーちーむ ゔぁんふぉーれ
解説
ヴァンフォーレ甲府は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に属するサッカーチームです。
ヴァンフォーレのヴァン(VENT)はフランス語で風を、フォーレ(FORET)は林を意味します。風林とくれば風林火山。もちろん武田晴信(信玄)の旗印です。
現在はJ2という2部リーグに籍をおいていますが、過去には通算8年にわたり1部リーグであるJ1に籍をおいたこともあります。
そもそもヴァンフォーレは1965年に甲府一高OBによって設立された鶴城クラブから生まれた甲府サッカークラブがルーツとなっています。甲府クラブはアマチュアの日本リーグ2部に所属していましたが大企業がバックについているチームではなく教員・旅館経営者・農業・警察官・会社員といった様々な職業を持つ選手が集まったチームでした。そんなわけですから僧侶の選手が袈裟懸けのまま試合会場に駆けつけて相手チームが仰天するといったエピソードも残っています。
こうした地元に根付いたチームの伝統は1995年にヴァンフォーレ甲府と改名し、1999年にJリーグに参戦しても変わりませんでした。しかしそれゆえ財務基盤が脆弱であり、満足な選手補強も出来ないためチームの弱体化が進んでしまいました。
2000年は26戦連続未勝利という今も破られていない不名誉な記録を作ってしまい、観客動員も低迷。1億円の債務超過に陥り、あわやチーム解散か!という存亡の危機に立たされたのですが・・・
伝えよう 『小島の春』の 悲しみを
つたえよう 『こじまのはる』のかなしみを
解説
「小島の春 ある女医の手記」は笛吹市春日居町出身で、岡山県のハンセン病患者の療養所である長島愛生園においてハンセン病患者の救済に尽力した小川正子が著わした本の題名です。
現在ハンセン病は感染症であることが明らかであり治療薬も開発されているため、日本での発症者はほぼゼロとなっています。ただ、確かにハンセン病は感染症なのですが感染力が弱いため生活を共にする家族間で感染するケースが多く、以前は遺伝的要素が原因と思われており、患者だけでなく、その家族や親せきもいわれのない差別や偏見に苦しめられてきたのでした。
小川正子が長島愛生園の医師として勤務していた昭和初期においては、患者は奥座敷や離れに押し込められたり、劣悪な場所に粗末な小屋掛けをしたりして世をはばかんで暮らしていたのでした。
このような状況のなか、小川正子は園での勤務の他に、四国や中国地方の山村に分け入り、ハンセン病に関する啓蒙活動や、長島愛生園の入所者の様子を写した映画を上映しながら患者とその家族にハンセン病療養所への入所を説いて回ったのでした。
そうした活動の様子を記録にして自費出版したのが「小島の春」です。当時は長島に行くということは患者と家族にとっては今生の別れを意味します。個々のエピソードは勿論ですが、正子自身が詠んだ歌がまた心を打ちます。
「てっ!」と驚く甲州人
「てっ!」とおどろくこうしゅうじん
解説
山梨県には方言はあまりないと言われていましたが、どうしてどうしてかなり強烈な方言が残っています。読み札で取り上げた「てっ!」というのは、標準語では「まぁ!」といったところでしょうか。文法的には感嘆詞となります。
例えば「てっ!いいもんがあるじゃんけ」というのは、標準語に言い換えると「まぁ、良いものがありますね」となります。また「てっ!」は好ましい場合や良い状態を表すだけでなく、悪いことや良くないことに接した場合も思わず口にしてしまいます。
子供「タカシ君のお兄ちゃんは中学生なのにタバコ吸っていたよ」
母親「てっ!困ったボコだよぉ」
という具合です。ちなみにボコというのは甲州弁で子供のことを言います。
近年で甲州弁が注目されたのが、NHKの朝の連続ドラマ小説『花子とアン』でしょう。これは甲府市出身で『赤毛のアン』の翻訳者である村岡花子の物語で、花子が幼い時期に過ごした山梨での話し言葉が使われていました。
遠くまで 裾野広げる 八ヶ岳
とおくまで すそのひろげる やつがたけ
解説
八ヶ岳は甲府盆地の北西に裾野を広げて屏風のように聳える山で、山梨県と長野県に跨り南北20㌔にも達しています。名前の云われはギザギザした山が八つあるからということらしいですが、この場合の八は沢山という意味を持っているようです。
最高峰の赤岳の標高は2899mで富士山と日本アルプスを除けばこれだけ高い山はありません。その他に山梨県側の峰としては権現岳(2715m)や編笠山(2524m)などがあります。
その成り立ちは火山で、富士山と同じく広い裾野を広げています。私が初めてその頂を踏んだのは高校1年の夏でした。甲斐大泉駅より権現岳に登り、雷から逃げるように下山しました。途中から雨に打たれ歩いた道の遠かったこと。その裾野の広さが身に沁みました。
濡れネズミの体で辿り着いた甲斐小泉の駅では電車の待ち時間に駅員さんに熱いコーヒーをご馳走になりました。その甲斐小泉駅も、かなり以前より無人駅になってしまいましたが良い思い出です。
富士山の登山ガイドをしていたときは、お客さんを飽きさせないよう話のネタによく使いました。晴れた日は雲海の上にギザギザの頭を出しているのですぐに分かります。八ヶ岳の名前にいまひとつ反応しない方でも、清里やソフトクリームで有名な清泉寮がある山ですよというと「行ったことあります」という方が結構いました。
またときには富士山と八ヶ岳の背比べの昔話を紹介しました。それは・・・
南部 たけのこ 茶葉の里
なんぶ たけのこ ちゃばのさと
解説
山梨県の地図を見ると左側(西側)がググッと下がっていますが、その先端にあるのが南部町です。その名のとおり山梨県南端の富士川の両岸に広がっているため役場の標高は約100m、もうちょっと下って静岡県境の標高が約80mと山梨県でもっとも低い場所になります。ちなみに甲府市役所が約270m、富士吉田市役所に至っては約770mもあります。
そのため気温も甲府市より2~3度、ときには5度ほども温かく山の木々も冬でも葉が落ちない照葉樹が多くなります。こうした自然環境が竹林の生育に適しタケノコが名産品となっています。町内の道の駅とみざわにもタケノコの巨大モニュメントがあり、毎年春にはタケノコ祭りが開かれています。
もうひとつのお茶ですが、南部における茶の歴史は古く、武田氏の親族で戦国時代にこの地を支配していた穴山信君が茶園の垣根の修繕について記述した古文書が残っています。ただし商品作物としては昭和30年代から市場性の高い「やぶきた」を中心に栽培されています。
南部の地で茶の栽培に適している理由は、畑が礫(れき)混じりの土壌で適度な傾斜があり排水がよいこと。山間で強い直射日光に当たる時間が短く川霧が柔らかく茶葉を包むことなどが挙げられます。
ところで南部町にはタケノコとお茶だけでない凄い歴史があるのです・・・
日本の 近代つくった 甲州人
にほんの きんだいつくった こうしゅうじん
解説
日本史においてはペリー来航から大政奉還あたりを境に近代が始まったとされています。
この時期の政治の牽引車といえば西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬といった名前が浮かびますが、残念ながら甲州からは幕末の志士として広く知られる人物は輩出されませんでした。
しかし電力や鉄道といった近代国家に欠かせない社会インフラの整備において、甲州人は全国で大きな仕事をするようになります。特に鉄道では東武鉄道の根津嘉一郎、阪急電鉄の小林一三、日本で最初に地下鉄を建設して営業した東京地下鐡道(現在の東京メトロ等)の早川徳次といった大実業家が生まれます。
またこの3人の実業家は単に鉄道の路線を伸ばし利益を上げることだけに執着したのではなく、人々の心と生活を豊かにし、若い世代を育てることにも心血を注ぎました。
根津嘉一郎は東京青山の根津美術館を、小林一三は宝塚歌劇団やプロ野球の阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)を作り、その芸術・芸能・スポーツを尊重する精神は今に受け継がれています。早川においても郷里山梨で次代を担う青年道場の建設を予定していました。
ぬくもりと伝統つなぐ 印伝・甲斐絹
ぬくもりとでんとうつなぐ いんでん・かいき
解説
印伝とは鹿革を用いた袋や財布、煙草入れといった身の回り品のことです。
16世紀頃に印度(インド)から伝わった応帝亜革(インデヤかわ)という革製品があり、印度伝来だから印伝(正確には印傳)といわれています。
また甲斐絹というのは織物のことです。平安時代に編まれた延喜式には租庸調の庸として布を納める国として甲斐が挙げられているように、甲州は古くから織物が盛んだったことが分かります。
そしてこのふたつは古くから人々の生活の場で愛用されていました。あの弥次喜多道中でおなじみの『東海道中膝栗毛』の主人公の弥次さん喜多さんも印伝を愛用していたようで・・・・
粘土節 明るく励ます お高やん
ねんどぶし あかるくはげます おたかやん
解説
粘土節は山梨県の釜無川周辺に伝わる民謡で、民衆が堤防の土を固める作業をしながら歌ったといわれています。
明治18年の釜無川の大氾濫の後に政府は周辺住民に出労義務を課し堤防工事を行います。当然のことながら工事はすべて人力です。男はモッコやトロッコ(釜無川周辺ではビールといった)で土を運び、女は杵で粘土を固め「平打ち」という板に柄を付けた道具で堤防の傾斜を作っていったそうです。
このとき小井川村(現中央市)に住む美声で器量よしの17歳の娘「お高」が粘土節を歌うと、作業がはかどったといわれています。今でいうところのご当地アイドルのような存在だったのでしょう。なんといっても毎日会えるわけですから。
その後お高やんは堤防工事の現場で知り合った男性と・・・・
ノーベル賞の 大村博士
ノーベルしょうの おおむらはくし
解説
2015年10月5日、ストックホルムからビッグニュースが届きました。
北里大学特別栄誉教授の大村 智博士が共同研究者のウイリアム・キャンベル博士とノーベル生理学・医学賞を受賞したのです。受賞理由は「回虫、寄生虫によって引き起こされる感染症の新しい治療法の発見に対して」というものでした。
大村博士は微生物由来の天然有機化合物を研究し、そこからエバーメクチンや、その化学構造を改良したイベルメクチンが発見されました。特にイベルメクチンは「メクチザン」という商品名でオンコセルカ症(河川盲目症)やリンパ系フィラリア(象皮病)の特効薬となり、アフリカを中心に2億3千万人が年1回服用して失明を防いでいるといわれています。
今では新型コロナウイルスの影に隠れてしまった感もありますが、医学が進んだ今日でも熱帯地方ではこの2つの病気の他にもデング熱や狂犬病、トラコーマ、土壌伝播寄生虫症(回虫)等の18の疾病は「顧みられない熱帯病」といわれ多くの人を苦しめています。
一説には15億人が感染しており毎年50万人が命を落としているといわれているにも関わらず、なぜ「顧みられない」のかというと、製薬会社が莫大な費用をかけて新薬を開発しても蔓延している地域が世界の最貧地帯であり購買力が低いために利益が見込めないという構造的な問題が横たわっているからといわれています。
こうした世界の現状を鑑みると、やはり大村博士が世界の最貧地帯の人々の健康を劇的に回復させ「人類に対して最大の貢献をした」と評価されたのも頷けます。
大村先生は昭和10年(1935)に山梨県北巨摩郡神山村(現韮崎市)の米作りや養蚕を業とする農家に生れました。朝暗いうちから農作業をして・・・
俳句の巨人 蛇笏と龍太
はいくのきょじん だこつとりゅうた
解説
をりとりて はらりとおもき すすきかな
蛇笏
飯田蛇笏の名前を知ったのは小学6年生の国語の授業でした。冒頭の句が教科書に掲載されていて、担任の先生が「この蛇笏という人は境川村(現在の笛吹市境川町)に住んでいて全国に何千人とお弟子さんがいるのだ」と教えてくれました。
蛇笏は明治18年(1885)山梨県東八代郡五成村(現笛吹市境川町)に生れました。境川は昔から俳句が盛んなところで、蛇笏も9歳のときに句会に参加して作った句がこちらです。
もつ花におつる涙や墓まゐり
甲府中学から早稲田大学に進学し、高浜虚子に師事しますが、家業を継ぐため大学を中退し境川に戻ります。ときに明治42年。蛇笏24才のときでした。
農となって郷国ひろし柿の秋
蛇笏の生家は境川の小黒坂という集落で北に八ヶ岳を望み、その左手には遥か信州の北アルプスが白く小さく見渡せます。蛇笏は生涯この小黒坂の自宅を拠点に句作と俳誌「雲母」の刊行を続けます。当然のことながら蛇笏の句には小黒坂の風景が頻繁に登場します。
春あさき人の会釈や山畑
植ゑし田の中の巨石や忘れ笠
背負いたつ大草籠や秋の昼
冬渓をこゆる兎に山の月
ただこうした風景を詠んだ句は蛇笏の一面を現しているに過ぎません。戦雲ただならぬ時代のなかで・・・
悲運の武将 勝頼公
ひうんのぶしょう かつよりこう
解説
武田勝頼と聞いて皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?
多くの方は「信玄の息子として戦国最強軍団を引継ぎながら武田家を滅亡させてしまった暗君」とか「長篠の戦いで織田・徳川の鉄砲隊に突撃を仕掛けた時代遅れの戦国大名」といったところでしょうか。
それゆえ山梨県民でも武田家滅亡については、ひとり勝頼の資質不足に原因を求めてしまい「やっぱり信玄は凄かった」という風潮が未だに残っているといえます。では本当に勝頼はダメな戦国大名だったのでしょうか?また何故戦国最強といわれた武田家は滅亡してしまったのでしょうか?
よく知られているように勝頼は信玄が自ら討った信州諏訪地方の領主、諏訪頼重の娘を側室にして産ませた子で、成人してからは諏訪四郎神勝頼(すわしろうじんかつより)を名乗り信州高遠城主となります。神(じん)は諏訪大社の神職、大祝(おおほうり)の血を引くことを示し、ひとりの武将として武田家に仕えることが期待されていました。
しかし思わぬことが勝頼を信玄の後継者に押し上げます。それは・・・・
ふるさとの味 ほうとうと 吉田のうどん
ふるさとのあじ ほうとうと よしだのうどん
解説
甲州の郷土料理で真っ先に名前があがるのが「ほうとう」です。小麦粉を練って厚さ5mmほどに延ばしてから幅2cmほどに切り、この麺を打ち粉がついたまま季節の野菜と共に煮込んで味噌を溶いて出来上がりです。
「美味いもんだよ南瓜のほうとう」と言われますが、「ほうとう」はあくまで日常の食べ物なので、南瓜の他にも人参、馬鈴薯、里芋、牛蒡、大根、椎茸、白菜、長葱などなど四季折々の野菜が用いられ、更に豚肉、油揚げなどを入れる家庭もあります。また前日の残りの「ほうとう」は箸でつまむと切れてしまうのですが、味が染みているためそのまま食べてもよし、熱々ご飯の友として味噌汁代わりに食べても美味いものです。
その「ほうとう」と並ぶ郷土食として最近知名度を上げているのが・・・
平和を願い あの日の空襲 語り継ぐ
へいわをねがい あのひのくうしゅう かたりつぐ
解説
昭和20年7月6日の夜、静岡県の御前崎から甲府盆地に侵入した131機のB29爆撃機は、23時40分過ぎに照明弾で街を照らし出すと、約2時間のあいだに970トンもの焼夷弾を投下して市街地を焼き尽くしました。この空襲により1,127名が犠牲になり、市内の家屋の約7割にあたる17,864戸が焼失しました。空襲当日甲府は曇り空だったそうで、もし雲がなければ爆撃の精度もあがり更に犠牲者が増えたのではないかとも言われています。
この日、B29の乗員として甲府空襲に参加した元米軍兵士とコンタクトをとった方によると、B29の乗員だった兵士は「甲府空襲のことはよく思い出せない」と言ったそうです。米軍の俗語に「ミルクラン」というものがあり、直接の意味は牧場を巡回して牛乳を回収することをいうのですが、B29の乗員の間では「退屈なルーチン業務」といった意味合いで使われていたそうです。甲府のような小都市は高射砲もなく、また迎え撃つ日本軍の戦闘機もいなかったため、決められた場所に爆弾を落として帰ってくるだけのミルクランだったのです。
宝石研磨 貴石の技は 日本一
ほうせきけんま きせきのわざは にほんいち
解説
甲府盆地北部の山岳地帯にはマグマがゆっくり冷えて固まった花崗岩が広く分布しています。その中にたまっていたガスや液体が固まり水晶となるのですが、山梨県では縄文時代の遺跡からも矢じりに加工した水晶が出土しているので、古くから人々の間で利用されていたことが分かります。
江戸時代に京都から水晶の買い付けに来た商人が昇仙峡の上流の金桜神社の神官に研磨技術を伝え、次第に職人集団が形成され本格的に水晶加工が始まったといわれています。近代になると研磨技法の発達と電動化により生産量が増加し、明治時代の後半にはカタログを用いた通信販売も始まり取扱量も増えました。
その後、地元鉱山からの産出が減少し原石不足に悩まされますがブラジルからの輸入水晶で乗り越え、また戦中には贅沢品の製造・販売が禁止されるなど幾多の危機はありましたが、確かな技術の継承によって甲府は宝飾品の産地としての地位を確立し、現在でも貴金属宝石製装身具製品製造業の数では日本一となっています。
そんな宝石研磨技術の極みといえるものが…
まん丸の 心で彫るは 木喰さん
まんまるの こころでほるは もくじきさん
解説
突然ですが47都道府県すべてに行ったことがある方はどれくらいいるでしょうか?交通手段が発達した現代でさえも意外と少ないのではないでしょうか。
今を遡ること約300年前の享保3年(1718年)甲州の山村の丸畑(南巨摩郡身延町古関字丸畑)の伊藤家に生れた木喰上人は14才のときに「野良に行ってくる」と言ってそのまま江戸に出奔。奉公人の苦労を味わい22才で出家。45才で師より「木喰戒」を受け日本廻国を志し、93才で亡くなるまで沖縄を除く日本各地を歩きながら一説には二千体ともいわれる仏像を彫って旅をしました。
この木喰戒というのは米、麦、稗といった五穀を断ち、そのうえ煮炊きをしたものを摂らないという厳しい修行生活を続けることを指します。
その作風は優しい笑みをたたえたものが多く微笑仏と呼ばれ、全体的に丸みを帯びているため温かさが伝わってきます。また上人は仏像を彫るだけでなく多くの和歌を遺しています。
まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸
我心 にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり
実は木喰さんは人々の記憶から忘れ去られていたといえるのですが、没後100年以上が過ぎた大正時代にある偉大な思想家によって再び注目されるようになったのです。その思想家は・・・
見渡せば 甲斐駒 北岳 天高く
みわたせば かいこま きただけ てんたかく
解説
地名としての山梨の由来は諸説あるようですが、個人的には山がちな地形、つまり土地が山を成している「山成し」という説が有力ではないかと思います。いずれにせよ甲府盆地は周囲を山で囲まれ、また郡内地方では富士山は言うに及ばず、その周辺にもなかなか個性的な山が揃っています。
そうした山々の中でも殊に目を引くのが甲斐駒ヶ岳(2967m)と北岳(3193m)でしょう。
このふたつの山は甲府盆地の西側の赤石山脈(南アルプス)の高峰であり、甲斐駒がピラミダルナ山容で目を惹く一方、北岳は人里から望む場合は常に前衛の山なみの後に控えめに頭を出している奥ゆかしさがあるゆえに我が国第二位の標高を誇りながらも、山梨県民でさえも知名度はいまひとつではないでしょうか。
甲斐駒ヶ岳は古くから人々の信仰を集めた山でした。甲府盆地から韮崎を通り諏訪に抜ける車窓から見るその姿は見る者を圧倒する力強さがあり山全体に力が漲っているように見えます。『日本百名山』の著者の深田久弥をして、日本十名山を選ぶとしても甲斐駒ヶ岳は落とせないと言わしめた理由が分かります。
昔より 人が行き交う 甲斐の国
むかしより ひとがゆきかう かいのくに
解説
山梨県の旧国名は甲斐の国です。甲斐は「かい」と読み旧仮名遣いでは「かひ」と書くのですが、そもそも何故「かひ」なのでしょうか?これについては江戸時代の国学者本居宣長が、甲州の門弟萩原元克が唱える、山と山の間(はざま)を意味する「峡(かひ)」に由来しているという説を紹介しています。しかし近年、この説は成り立たないことが言語学の観点から明らかになってきました。
これは奈良時代以前の上代の日本語はイ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びエの14音について発音が2種類あったことが古事記や日本書記、万葉集などの漢字表記の研究から分かって来たのです。例えば「雪」は「由伎」と書かれ、「月」は「都紀」と書かれていました。つまり現代では同じ発音の「き」が「紀」と「伎」にしっかりと書き分けられており、相互に入れ替わることが無いため別の発音だと考えられるようになりました。
この研究によると『甲斐』は「柯彼」「歌斐」と表記されています。例えば、聖徳太子が乗って一晩にして富士登山を成し遂げたという伝説のある「甲斐の黒駒」は日本書記では「柯彼能倶盧古磨」となります。一方の『峡』は「賀比」「可比」と表記されており「ひ」の表記が厳密に区別されています。このため他の膨大な事例の集積から両者の「ひ」の発音が違っていただろうと推測して、甲斐の由来は峡ではないという結論に至ったのです。
では甲斐の語源は何か?近ごろ注目されているのが・・・
名将信玄 眠る恵林寺 鐘が鳴る
めいしょんしんげん ねむるえりんじ かねがなる
解説
大永元年(1521)に源氏の名門武田家の嫡男として生れた晴信(のちの信玄)は、20才のときに父信虎を駿河に追放し、信濃を攻略。その結果、領地を追われた北信濃の豪族は越後の上杉謙信を頼り、上杉軍は信濃に出兵し世に言う川中島の戦が勃発します。その後も西上野や小田原にも出兵、今川義元亡き後の駿河も斬り従がえますが、その過程で義元の娘を夫人として迎えていた長男義信と対立し、最終的には義信を自刃に追い込むことになります。
元亀3年(1573)12月、京を目指していた信玄は、後の天下人 徳川家康の浜松城の目と鼻の先を素通りします。このとき家康は、武田軍に戦を挑みますが老獪な信玄の前に大敗します。いよいよ織田信長との決戦に向けて兵を進めるかに見えましたが、信玄の身体はこれ以上の進軍を拒みました。
浜名湖の北で越年し、年明けには野田城を陥しますが病状は回復せず甲斐に戻る途中の信州阿智村で世を去りました。
信玄没4年後の天正4年(1576)に菩提寺である恵林寺において厳粛に葬儀が営まれ、墓所が設けられました。現在我々が見ることが出来る石塔は信玄の百回忌に武田家の遠孫、旧臣子孫592名の浄財をもって建立されたものです。
ところで現代に生きる我々が信玄の言葉を知ることが出来るのは、側近である高坂弾正(春日虎綱)が口述し、それを高坂の家臣が書きとった『甲陽軍鑑』によるところが大きいのですが、甲陽軍鑑は、つい最近まで「後世の創作」とか「偽書」であるとさえ言われていました。
こうした甲陽軍艦の歴史的評価を一変させたのが山梨県立女子短期大学(現山梨県立大学)に赴任して来た酒井憲二でした。酒井は文学者の視点から、歴史学者とは違った視点で甲陽軍艦を読み解き、それが偽書ではなく、高坂の口述を、ほぼ正確に今に伝えている非常に価値のある史料であるということを『甲陽軍鑑大成』として発表して従来説を正したのでした。ではどのようにして長らく常識と考えられていた説を論破したのでしょうか。
それは・・・・
桃 ぶどう 名高い 甲州八珍果
ももぶどう なだかい こうしゅうはっちんか
解説
山梨の農産物といえば真っ先に思い浮かぶのが果実です。桃と葡萄は都道府県別の生産高が日本一で、柿、梨、林檎、石榴、栗、胡桃(もしくは銀杏)を加えて江戸時代から「甲州八珍果」として知られていました。
甲州における果実と人の関わりの歴史は古く、縄文時代の遺跡からは桃の種を包んでいる桃核が多数出土しています。また葡萄は奈良時代の僧、行基がこの地にもたらしたとも、鎌倉時代に雨宮勘解由という人物が野生種と違う葡萄を発見して栽培を始めたものが甲州葡萄の始まりともいわれています。江戸時代には今に続く棚による栽培が行われていました。
このように甲府盆地で果物栽培が盛んになった理由は、盆地周辺の扇状地が水捌けがよいため果実の水分が多すぎずに甘みが凝縮されることと、昼と夜の寒暖差が大きいことが挙げられます。この寒暖差が果物の甘味にどのように影響するのかというと・・・
やすらぎの ミレーの絵のある 美術館
やすらぎの みれーのえのある びじゅつかん
解説
縁あってジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875年・文化11~明治8年)の《種をまく人》が山梨に来て40有余年。今ではすっかり山梨の風土に溶け込み山梨県立美術館は「ミレーの美術館」として広く親しまれています。
これは農民の労働や日常を題材にしているミレーの作風が、フランスと日本という距離を飛び越えて普遍的な分かりやすさを持っているため、農業県である山梨県民に受け入れられたからではないかと思います。
1977年9月6日、当時の田辺国男知事が翌年オープンする山梨県立美術館の収蔵品としてミレーの《種をまく人》と《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》をニューヨークのオークションで落札したことを発表しました。もともとはフィラデルフィア美術館にあったものでしたが、たまたまそのオークションが延期され再開までの期間に、山梨県が委託した画商が事前に情報を掴んで資金面の準備をしっかりして臨めたことが勝因だったと言われています。
『種をまく人』は1億687万円、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』は7481万円。当時公立美術館が億の絵を購入することなど、ほとんどなかったため「小さな県の大きな買い物」と言われ全国的な話題をさらいました。県民の間でも賛否両論あり、これだけの支出をするならば教育や福祉、農業振興へ使うべきだという声も議会からはありましたが、田辺知事は福祉や教育と芸術というものは次元が異なり、それぞれが大切であると議会で答弁しています。
ちなみに購入資金をどのように調達したかというと・・・
棡原 長寿の暮らし ここにあり
ゆずりはら ちょうじゅのくらし ここにあり
解説
山梨県の東端に位置し、東京・神奈川からの玄関口ともいえる上野原市。その中心部から北へ5キロほどの山間に棡原地区があります。一見するとどこにでもある山村ですが、ここ棡原のお年寄りは高齢になっても夫婦そろって山や畑での仕事に勤しみ、およそ長く床に臥すようなことが少ないことが注目されて長寿村として有名になりました。
この村の高齢者の生活に最初に着目したのは甲府の医師、古守豊甫です。古守は甲府中学卒業後、棡原小学校に代用教員として勤務しますが、僅か1年で棡原を去り、大学で医学を学び軍医として南方のラバウルで従軍します。
復員後たびたび棡原を訪れた古守は、代用教員時代に交流のあった高齢者が当時と変わりなく山仕事や畑にいく姿を見て驚きます。また棡原では10人前後の子供を母乳で育てる女性が珍しくなかったにもかかわらず、昭和40年代には棡原以外の場所で母乳が出ないことに悩む母親の話を聞き、棡原の住民の長寿と健康に何らかの地域的な要因があるのではないかと考えるようになり「最近の母乳不足を憂う=肉食と菜食をめぐって=」という小論をまとめて長寿研究の大家である東北大学の近藤正二博士に送ります。
そして昭和43年8月に古守は近藤博士を案内して棡原を訪れ実地調査が開始されたのでした。調査の結果、棡原が長寿の村と言われる要因は・・・
世にも珍し 奇岩連なる 昇仙峡
よにもめずらし きがんつらなる しょうせんきょう
解説
甲府市街を流れる荒川は中流から上流にかけては甲斐市との境界を刻んでいます。平瀬の浄水場を過ぎてしばらく登ると長とろ橋が見えてきます。この橋は大正14年に竣工したアーチ橋で、ここが昇仙峡の入り口にあたります。
このあたりの山は花崗岩で形成されており長い歳月をかけて浸食されて日本有数の渓谷美を作ったのが昇仙峡です。そのシンボルともいえる覚円峰で高さは約180m。その昔、覚円という僧が数畳の広さの頂上で修行したことに由来しています。
さてこの昇仙峡の渓谷美が多くの人の目に触れるようになってから、実はまだ150年ほどしか経っていません。昇仙峡には、一説には平安時代より今に続く羅漢寺があり、修験道者の修行と信仰の場ではありましたが、一般的な人馬が通ることが出来る道は通じていませんでした。そのため巨摩郡猪狩村(現在の甲府市猪狩町)やその周辺の住民は、薪炭を甲府へ売りに行き、米や塩を買って帰るには西側の山を越える難路を通らねばならなかったのです。
そこで猪狩村の名主であった長田円右衛門は、甲府までの生活道路を荒川沿いに開削して、利便性を高めようと新道の開削を行いました。そうは言っても岩盤が重畳する川沿いに道を穿つことは、工事はもとより資金を集めることもそれと同様に難儀したようでした。
自らの畑を質に入れたり、それでも足りない分は近郷の村々や甲府勤番の武士にも寄附を呼び掛けたそうです。
彼の新道開削に懸ける実直な思いは人々を動かし・・・
ラジウム豊富な 増富温泉
らじうむほうふな ますとみおんせん
解説
増富温泉は金峰山より西に流れる本谷川沿いに湧出する温泉で、1913年には内務省衛生試験所によりラジウムエマナチオン(ラドン)含有量の調査が行われ12,800マッへ(マッヘは放射能の単位)という世界有数の値が測定されたのでした。
そもそもラジウム(Ra)とは1898年にキュリー夫人によって発見された固体元素で、放射能が半分になる半減期は1622年です。
ラドンはラジウムが崩壊するときに出来る気体の元素で半減期は僅か3.8日と激減します。日本温泉協会によると温泉水1kg中にラドンが30×10-10キュリー以上(8.25マッへ単位以上)含まれているものを放射能泉と定義しています。
ラジウム温泉は、このラドンが温泉水に溶けて湧出し皮膚から吸収されたり、飲用や呼吸を通じて体内に取り込まれることで生体機能が活性化され免疫力や自然治癒力が向上するといわれています。
一般的に放射能は有害でしかないという認識がありますが、通常は有害な作用を示すものでも微量であれば免疫力の向上など身体に有益な効果を引き出すことがあるといわれています。これはホルミシス効果といわれており1978年にミズーリ大学教授のトーマス・ラッキー教授が発表したもので、世界的に脚光を浴びました。
さてその増富温泉の特徴は・・・
猟犬気質の 甲斐犬強し
りょうけんかたぎの かいけんつよし
解説
甲斐犬は、柴犬や秋田犬、紀州犬などと並び主要な日本犬6種のうちのひとつとして昭和9年に天然記念物に指定されました。
特徴は黒い毛に茶褐色や赤身の強い褐色が混じっており、体長と体高の比率が100:100で体高は39.5~45.5㎝、耳は長くて大きな三角形で強く前傾していない、また尾は差尾か巻尾で、巻尾の場合は巻きが緩いといった特徴があります。
もともと太古の昔から甲州の山間地を中心に人間と共に狩りをしていたと言われ、強靭な体躯と俊敏な運動能力、そして闘争心を持ち合わせています。
甲斐犬は南アルプスの山村である芦安村や旧西山村が原産地ではないかという説が有力ですが、天然記念物指定申請書には甲府の黒平や山梨市の西保村、西八代郡上九一色村なども示されています。つまり甲府盆地の四囲の山村に甲斐犬がいたことが分かります。甲府の旧甲州街道沿いでは「ブチ毛」と呼ばれていた犬が多く飼われていたそうで、このブチ毛の中から体高や被毛、耳の形などの特徴を定めて固定化したものが甲斐犬となったそうです。
さて甲斐犬の性格としては賢くて忠誠心が強いことが挙げられます。
戦時中、日本軍はドイツからシェパードを輸入して軍用犬として訓練していましたが、甲斐犬はシェパードの半分の時間で習得したため陸軍は大いに喜んだそうです。ところが戦地に送られた甲斐犬は・・・
瑠璃色の空 向日葵と 朝穂堰
るりいろのそら ひまわりと あさほせぎ
解説
住んでいる者にとっては指摘されるまで気づくこともないかもしれませんが、山梨は晴天の日が多い県なのです。総務省統計局のデータによると2019年の年間日照時間は2216時間で全国1位となっています。ちなみにこの年に日照時間が最も少ない県は意外にも沖縄県で1665時間となっています。その差551時間。仮に日中の時間を12時間とすると山梨は沖縄より年間46日ほど晴れの日が多いことになります。
その山梨の中でも日照時間が長いのが北杜市の明野地区といわれています。吸い込まれるような青空の下、咲き誇る向日葵は夏の山梨の象徴ともいえます。明野地区は茅ヶ岳の裾野に位置していますが、この裾野の末端を塩川が流れているため、年間を通じて川沿いに風が吹き上昇気流が生じにくいことが晴天に繋がっているのではないかといわれています。
地元でも昔から「茅ヶ岳には雲がかからない」といわれていたそうで、北杜市に合併する前の明野村では太陽光に着目したローカルエネルギーの開発を見込んで、昭和55年に明野中学に気象観測所を作り、その管理を気象観測委員会の生徒が行うことになったのです。
早速観測を開始したところ・・・
連歌の生まれた 酒折の宮
れんがのうまれた さかおりのみや
解説
山梨の県都である甲府の隣にある酒折駅は各駅停車しか停まらない小さな駅ですが、実はこの酒折に鎮座する酒折の宮は我が国最古の書物である『古事記』と、最古の国史といえる『日本書記』の双方に登場する由緒ある神社なのです。
景行天皇の嫡子であり東国の平定を任ぜられたヤマトタケルノミコト(日本武尊 倭建命)が、その途中に甲斐に立ち寄り、酒折に留まったときに東征の旅を振り返り誰にともなく問い掛けます。
『新治(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる』
(筑波の国を過ぎて、ここまで幾つの夜を寝たことだろう)
武尊の周囲にいた家来は顔を見合わせますが誰も答えることができません。すると側にいた篝火(かがりび)を焚く老人がその歌に続けて
『日々並べて(かがなべて) 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を』と歌で答えたのでした。
(日を重ねて数えてみれば九泊十日となります)
このことで武尊はこの老人、古事記では御火焼(みひたき)の老人(おきな)を褒めて東国の国造(くにのみやつこ)に任命したのです。
このときの歌のやり取りのように、ひとりが上の句を詠み、他の者が下の句を詠むものを連歌というのですが、この酒折の宮での日本武尊と御火焼きの老人のやり取りが連歌の誕生であると言われています。
それにしてもなぜ古事記と日本書記の両方に甲斐の酒折が登場するのでしょうか?
労苦を重ねた 信玄堤
ろうくをかさねた しんげんづつみ
解説
戦国武将として武田信玄は根強い人気を誇っていますが、それは単に戦上手なだけでなく鉱山開発や法制度の整備、治水事業といった民政面での手腕も評価のポイントになっていると思います。
その信玄の治水事業の神髄と言われているのが釜無川と御勅使(みだい)川の合流地点の水の勢いを調整し、甲府盆地を水害から守っている信玄堤です。狭い意味では釜無川の左岸の甲斐市竜王付近の堤防をさすのですが、御勅使川の中流部にあり、溢れそうになる水を本流に戻す石積み出しといわれる石積の堤防や、水の流れを二分して弱める将棋頭といった石垣まで含めた広範囲の治水施設全体を信玄堤という場合もあります。
いずれも武田信玄が「造った」とされています。
今回この「かるた」を作るにあたり素人ながら文献をあたり、現地にも足を運び考えたのですが、どうも信玄がいきなり発案して一代で築いたと評価するにはかなり無理があるのではないかと思うに至りました。もちろん信玄は治水事業に無関心であったわけではないのですが、現在に伝わる一連の信玄堤の功績のルーツを全て武田信玄という一領主に単純に結びつけるのは、歴史の真相に蓋をすることになりかねないと考えるのです。
では何故そう考えるに至ったかというと・・・
和して囲もう ワインの卓を
わしてかこもう わいんのたくを
解説
文明開化によって一般国民もワインを目にすることになった明治時代、山梨では山田宥教と宅間憲久という民間人の手により明治7年にワインの醸造がはじめられました。
その後一時は官営の流れもありましが明治10年(1877)に我が国初のワイン醸造会社の「大日本山梨葡萄酒会社」が設立され、本格的な醸造技術を学ぶため二人の青年、高野正誠と土屋龍憲をフランスへ派遣します。慣れない外国での生活の中で二人は1年4ヶ月という短い期間の中でフランス語を覚えながら苦労してブドウ栽培とワイン醸造の勉学に励み、本場の技術を持ち帰ります。
この二人の留学による成果と地元の有力者宮崎光太郎が進めた観光ぶどう園の方式が山梨県のワイン産業の基礎になっているといえます。
しかし当時の日本人はまだ本格的なワインの味に馴染めなかったため、甘味料や薬用成分を混ぜた甘味葡萄酒を販売せざるを得なかったそうです。
また戦時中は物資統制のため酒類の製造販売が厳しく制限されたのですが、日本酒や焼酎などと異なりワインだけは生産が奨励されたのでした。それは何故かというと・・・
をりをりに 楽しむ出湯 数多あり
をりをりに たのしむいでゆ あまたあり
解説
このかるたで温泉については増富温泉のみをその効能と泉質から固有の札で取り上げていますが、山梨県にはその他にも素晴らしい温泉が沢山あります。
確かに伊香保や草津、また別府といった他県の有名どころと比べると知名度こそ劣りますが、その数や泉質の豊富さと宿や施設がバラエティーに富んでいること、また比較的アプローチが良いこともありその時々の目的に合わせて楽しむことができます。
なぜ山梨に温泉が多いかというと・・・
んん?奇橋 猿橋 橋脚いらず
んん?ききょう さるはし きょうきゃくいらず
解説
猿橋は大月市の桂川渓谷に架かる木造の橋で、日本三奇橋のひとつに数えられています。奇橋とは字のとおり変わった橋で、甲州の猿橋と山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋は必ず挙げられますが、もうひとつは諸説あり、以前は富山県の黒部川に架かる愛本橋を指したようですが、架け替えによって往事の面影が無いため、今では徳島県の祖谷川(いやかわ)にかかる「かずら橋」がノミネートされることが多いようです。
猿橋が奇橋といわれる理由は桔橋(はねばし:刎橋とも表記)という構造にあります。これは桔木(はねき)といわれる、いわば土台にあたる木材を両岸の岩盤や土中に深く挿入し、その上に枕梁を置き、更にその上に別の桔木を乗せていきます。桔木は上に行くほど長くなり、猿橋では四段目の上に橋が渡されているのです。
伝説ではこの架橋方法は、志羅呼(しらこ)という渡来人が猿の群れが身体を繋ぎ、深い谷を渡る様子を見て考案したとも言われています。このように桔橋は谷が深く橋脚を建てられない場所での架橋方法として広く用いられていたのですが・・・