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読み札解説「ろ」

労苦を重ねた 信玄堤
ろうくをかさねた しんげんづづみ

戦国武将として武田信玄は根強い人気を誇っていますが、それは単に戦上手なだけでなく鉱山開発や法制度の整備、治水事業といった民政面での手腕も評価のポイントになっていると思います。

その信玄の治水事業の神髄と言われているのが釜無川と御勅使(みだい)川の合流地点の水の勢いを調整し、甲府盆地を水害から守っている信玄堤です。狭い意味では釜無川の左岸の甲斐市竜王付近の堤防をさすのですが、御勅使川の中流部にあり、溢れそうになる水を本流に戻す石積み出しといわれる石積の堤防や、水の流れを二分して弱める将棋頭といった石垣まで含めた広範囲の治水施設全体を信玄堤という場合もあります。

いずれも武田信玄が「造った」とされています。
今回この「かるた」を作るにあたり素人ながら文献をあたり、現地にも足を運び考えたのですが、どうも信玄がいきなり発案して一代で築いたと評価するにはかなり無理があるのではないかと思うに至りました。もちろん信玄は治水事業に無関心であったわけではないのですが、現在に伝わる一連の信玄堤の功績のルーツを全て武田信玄という一領主に単純に結びつけるのは、歴史の真相に蓋をすることになりかねないと考えるのです。

では何故そう考えるに至ったかというと・・・

信玄堤の歴史を紐解くにあたり必ず持ち出されるのが永禄3年(1560年)に武田家から発せられた古文書です。

個人蔵(画像提供:山梨県立博物館 引用-転載厳禁)

「於龍王之川除 作家令居住者 棟別役一切可 免許者也・・・・」

この龍王之川除というのは信玄堤を指します。昔は堤防などの水防施設のことを川除(かわよけ)といっていました。この文書の大意は龍王の川除(信玄堤)に家を作りそこに住み、堤防の維持管理にあたる者には課税を免除するというものです。

現在の龍王宿

そして多くの方が、この古文書をもって「これは信玄が始めた築堤工事が完成し、それの維持にあたる者を募集したものだ。だから信玄堤の着工時期は不明だが遅くとも1560年には信玄堤は完成していた」というのです。しかしこの主張にはとてつもない理論の飛躍が隠されています。この文書で信玄はあくまで免税と引き換えに川除(堤防)の維持管理者を募集しているに過ぎません。

実は今日に至るまで堤の建設を信玄が命じたという古文書は1枚も発見されていないのです。つまり堤の管理を命じたに過ぎない古文書を理由に、信玄が堤を造ったという結論を導くもので、少々乱暴な理由づけといわざるを得ません。もちろん堤防のような大掛かりな川除施設の造営工事や効率的な維持管理は、甲斐一国を統一した信虎とそれに続く信玄の時代により強力に押し進められたと考えることは理解できます。

しかし、信虎や信玄が現れる以前の領主や民衆は何もせずに、大雨が降れば川の水が溢れるに任せていたのでしょうか。甲斐の国における治水の歴史を語るうえで必ず言及されるのは天長2年(825年)に発生した大水害です。このとき釜無川の支流である御勅使川(みだいがわ)が大氾濫し、国司の文屋秋津(ふんやのあきつ)が朝廷に報告し淳和天皇が勅使を派遣したといわれています。

御勅使川。普段の水量は少ない。

平安時代の延喜5年(905年)にまとめられた律令の施行細則である『延喜式』には各国の税の使途が記載されており、甲斐国においては国分寺の維持管理料と同じ額が堤防料として計上されています。この堤防料の記載があるのは甲斐の他には河内国のみで、他国においては堰河防料といった言葉も使われています。当時の政治においても水の管理が重視されていたことが分かります。こうしたことからも、甲州においては少なくとも平安時代には、場所は不明ではありますが堤防が存在し公権力によってそれが管理されていたことが分かります。

甲州が発祥という説もある「聖牛」

聖牛は水勢を弱めて堤防を守る機能がある。

また、このときより甲斐国一ノ宮である浅間神社(笛吹市一宮町)、二ノ宮の美和神社(笛吹市御坂町)、および三ノ宮の玉諸神社(甲府市国玉町)の三社の神輿が、現在の信玄堤の際にある三社神社まで練り歩き水難除去の祝詞を奉じることになったと浅間神社の社伝に記されており、これが今でも行われている「おみゆきさん(御幸さん)」のお祭りです。

「おみゆきさん」では三つの神社の神輿が、甲府盆地を東から西に「ソコダイ、ソコダイ」の掛け声とともに横断し、三社神社に集結します。「ソコダイ」の掛け声の由来は、長い道のりを感じないように「三社神社はすぐそこだ!」という意味があるといわれています。

なお一宮の浅間神社の神様が女性の木花咲耶姫であり男性に担がれると恥ずかしがるからといわれているため一宮のお神輿は女装しています。また三ノ宮は神輿ではなく御幣を盛った形になっています。神社に到着したら祝詞を奏上して堤防で「水神」と書かれた小石を投げて水災のないことを祈ります。

右奥が三社神社。左の水路は信玄堤から取水した竜王用水。

この三社神社の創建は詳らかではないのですが、国土交通省のシュミレーションによると、この地点の堤防が決壊した場合、わずか6時間ほどで甲府盆地の大部分が水没するそうです。まさに甲府盆地の水防の要といえ、自然と祈りの場所になったと考えられます。

国土交通省甲府国道河川事務所ホームページより引用

信玄堤決壊時の経過時間別浸水深 釜無川 左岸 K181 地点

そして人々は、ただ祈るだけでなく水害を食い止めるために何らかの物理的な対策をしたはずです。では実際に治水の技術を持ち工事を指揮したのは誰なのかという疑問が生じます。それにヒントを与えてくれるのが甲府市太田町にある一蓮寺の過去帳です。この過去帳は南北朝時代から江戸時代初期にかけての宗徒の法名、俗名、没年月日、更には職業まで記されているのですが、その中に「川除(かわよけ)」という職業に就いていた者が何人かいるのです。

信玄堤のことを昔は龍王川除といっていたように川除とは水防や治水技術のこと指すのでおそらく築堤や水防技術を持った専門職であると推測されます。そして一蓮寺過去帳において、最も古い川除の記載は大永8年(1528)にあるのです。信玄は大永元年の生まれですからまだ8才、このときすでに甲府盆地では治水を生業にする人がいたと考えられます。

一蓮寺過去帳刊行会『影印対照 一蓮寺過去帳』地人館 より引用

以下私の推測ですが、川除職人の集団である川除衆は有力土豪や村単位の農民から治水工事を請け負い、普段は河川から水田への水の引き込みや水路の整備なども行っていたのではないかと思われます。

もちろん今後新たな史料が発見され、やっぱり信玄が造ったということになる可能性はあるのですが、現時点で言えることは「信玄は堤防の管理を重視した」ということくらいだと考えます。ただ父信虎の治世に曲がりなりにも甲斐が統一され河川を広範囲でコントロールする素地は出来たといえるので、信玄の代においては、より効率的な河川管理が可能になり治水の効果が増大したということは言えるかもしれません。

ただそれとて平安の頃から続いていた築堤技術や、16世紀前半には存在が確認できる川除衆といった治水の専門家集団の存在、そして三社神社と「おみゆきさん」に見られる甲州の民の祈りの歴史の上に領主としての信玄の治水管理が登場したもので、何もない広漠とした釜無川の河原に信玄がスーパーマンのように突如登場してゼロから作りあげたということは無理があるのではないでしょうか。

またこうした水防施設は造ればお終いではなく、その後の維持管理の継続が重要になってきます。御勅使川の上流にあり流れを北に向けるための施設と考えられている石積み出しの調査を行ったところコンクリートや鉄製のボルト、また明治以降の技術である鉄製の蛇籠が発掘されたのです。そもそも石積み出しは信玄の時代に造られたかどうかも不明なのですが、仮にそうであっても建設当時の姿をそのまま留めているのではなく、その後の時代の人々の労働の積み重ねによって今に伝わっているといえます。

まさに甲州の民の労苦が積み重ねられたものが「信玄堤」だと思います。

御勅使川の中流に残る石積出し