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読み札解説「ん」

んん?奇橋 猿橋 橋脚いらず
んん?ききょう さるはし きょうきゃくいらず

猿橋は大月市の桂川渓谷に架かる木造の橋で、日本三奇橋のひとつに数えられています。奇橋とは字のとおり変わった橋で、甲州の猿橋と山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋は必ず挙げられますが、もうひとつは諸説あり、以前は富山県の黒部川に架かる愛本橋を指したようですが、架け替えによって往事の面影が無いため、今では徳島県の祖谷川(いやかわ)にかかる「かずら橋」がノミネートされることが多いようです。

猿橋が奇橋といわれる理由は桔橋(はねばし:刎橋とも表記)という構造にあります。これは桔木(はねき)といわれる、いわば土台にあたる木材を両岸の岩盤や土中に深く挿入し、その上に枕梁を置き、更にその上に別の桔木を乗せていきます。桔木は上に行くほど長くなり、猿橋では四段目の上に橋が渡されているのです。

伝説ではこの架橋方法は、志羅呼(しらこ)という渡来人が猿の群れが身体を繋ぎ、深い谷を渡る様子を見て考案したとも言われています。このように桔橋は谷が深く橋脚を建てられない場所での架橋方法として広く用いられていたのですが・・・

明治になり西洋工法を用いるようになると、桔橋は姿を消し今ではこの猿橋のみとなったのでした。

写真の黄色矢印が桔木(はねき)で、青い矢印が枕梁(まくらはり)

木造の桔橋は桔木を地盤に挿入するという構造から傷みやすく、猿橋も江戸時代から現在に至るまで20~50年の周期で架け替えを行ってきたのでした。昭和26年に架け替えられた猿橋も徐々に傷みはじめ、昭和50年には危険なため通行禁止になってしまい、架け替えの話が持ち上がったのですが、いっそのこと鉄骨とコンクリートの永久橋にしてしまえ、つまり名こそ猿橋であっても、実際は平凡な橋にしてしまおうということにもなりかけたのでした。

そんなときに声をあげたのが地元の猿橋中学郷土歴史クラブの生徒でした。猿橋周辺の清掃活動を行いながら、猿橋の歴史を調べ「猿橋を私達の時代だけで終わらせるのはあまりに酷すぎます」「橋がなくなってしまったら私達の学校はどうして『猿橋』なのか次の世代の人達は分からなくなってしまいます」「私達の孫の孫の人達が猿橋を見られますように」と記録をまとめ、またNHK子供ニュースでも取り上げられた機会を活かし、ことあるごとに架け替えを訴えたのでした。

猿橋中学 郷土歴史クラブの調査研究成果

こうした中学生の声は大人を動かしました。「子供達があんなに真剣に猿橋を心配しているのに行政が何もしないわけにはいかない」(当時の大月市教育長)その結果文化庁の調査が行われました。当初は木造の猿橋を復元することも考えられたのですが、すでに架橋に必要な大木を調達することが不可能なこと、仮に木製の橋にした場合でも桔木(はねき)を埋めるという構造上、約30年後には架け替えを行う必要があることから鋼材を台湾ヒノキ材で巻き込む「鋼木折衷」工法での架け替えが決まります。

そして昭和59年8月11日、ついに猿橋が完成して渡り初めが行われたその夜、猿橋中の郷土歴史クラブの卒業生は久々に顔を合わせて祝杯を挙げたそうです。

歌川広重『甲陽猿橋之図』

日本建設業連合会機関誌「ACe」2020年10月号

ところで猿橋と桂川が織りなす景色は見事に調和しています。古くは歌川広重が筆を取り、荻生徂徠の心を惹き、そして現代においては観光地としてはもとより、土木や建設業界においても橋自体が持つ構造力学的な美しさが取り上げられることがしばしばあります。まさに「この渓にして、この橋あり」といっても良いかと思います。