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読み札解説「こ」

甲府を開いた信虎公
こうふをひらいたのぶとらこう

武田信虎像写し(山梨県立博物館 甲州文庫収蔵)

山梨県の県都甲府市は500年以上前の永正16(1519)年に武田信虎によって開かれました。
武田信玄(晴信)の父親である信虎は過酷な治世によって家臣・領民からの人望を失い実子信玄によって追放されたため悪いイメージを持たれがちですが、この「かるた」では自らの戦略思想に基づき甲府という拠点都市を作りあげた都市計画者としての一面に光を当てました。

それまで武田家が居を構えていた甲府の川田町に比べ、現在の武田神社のある躑躅ヶ崎に構えた新しい館は水害の危険が少なく甲府盆地の動向を見渡せる利点がありました。また万一に備え背後の要害山には籠城のための城郭を、湯村山には見張りの砦を築き館の門前に家臣を住まわせることで城下を形成して現在の甲府の基礎を作ったのです。

この武田氏の館にピンチが訪れます。大永元(1521)年に駿河の今川勢が・・・

甲府の荒川の飯田河原、つまり今の山梨県立中央病院のあたりまで攻めてきたのです。信虎とその家臣、また領民も一丸となって戦い今川勢の撃退に成功します。

荒川沿いにある飯田河原古戦場慰霊碑

幸いにも躑躅ヶ崎の館まで攻め込まれることはなかったのですが、信虎は身重の夫人を要害山に避難させたといわれ、そのとき生まれた男児が後の信玄となります。つまり非常時に備えて設けた要害山があったから後顧の憂いなく戦えたともいえたのではないでしょうか。

要害山と積翠寺。信玄は麓の積翠寺で生まれたという説もある。

仙台や名古屋といった大都市が開府してからまだ400年程度しか経っていないこと、また武田神社周辺では今に至るまで、ほとんど災害が発生していないことを考えても信虎の都市計画者としての先見性はもっと評価されてもよいと思います。

武田館跡に鎮座している武田神社

武田館と城下町の想像図(武田神社の案内板)

当時の正門 東側の大手口 土塁が築かれていた。

甲府開府500年となる2019年の前年に甲府駅北口に信虎の銅像が建立されました。戦国時代の武田氏といえば信玄があまりに有名ですが、その基礎を築いた人物として、今後様々な角度から光が当てられるとよいと思います。

甲府駅北口の武田信虎公像