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ノーベル賞の 大村博士
ノーベルしょうの おおむらはくし

2015年10月5日、ストックホルムからビッグニュースが届きました。
北里大学特別栄誉教授の大村 智博士が共同研究者のウイリアム・キャンベル博士とノーベル生理学・医学賞を受賞したのです。受賞理由は「回虫、寄生虫によって引き起こされる感染症の新しい治療法の発見に対して」というものでした。

大村博士は微生物由来の天然有機化合物を研究し、そこからエバーメクチンや、その化学構造を改良したイベルメクチンが発見されました。特にイベルメクチンは「メクチザン」という商品名でオンコセルカ症(河川盲目症)やリンパ系フィラリア(象皮病)の特効薬となり、アフリカを中心に2億3千万人が年1回服用して失明を防いでいるといわれています。

今では新型コロナウイルスの影に隠れてしまった感もありますが、医学が進んだ今日でも熱帯地方ではこの2つの病気の他にもデング熱や狂犬病、トラコーマ、土壌伝播寄生虫症(回虫)等の18の疾病は「顧みられない熱帯病」といわれ多くの人を苦しめています。
一説には15億人が感染しており毎年50万人が命を落としているといわれているにも関わらず、なぜ「顧みられない」のかというと、製薬会社が莫大な費用をかけて新薬を開発しても蔓延している地域が世界の最貧地帯であり購買力が低いために利益が見込めないという構造的な問題が横たわっているからといわれています。

こうした世界の現状を鑑みると、やはり大村博士が世界の最貧地帯の人々の健康を劇的に回復させ「人類に対して最大の貢献をした」と評価されたのも頷けます。

大村先生は昭和10年(1935)に山梨県北巨摩郡神山村(現韮崎市)の米作りや養蚕を業とする農家に生れました。朝暗いうちから農作業をして・・・

友達が登校する姿が見えると『そろそろ学校へ行け』と言われたそうです。

大村先生は韮崎高校に進学して卓球部、スキー部で活躍し、特にスキーの県大会では長距離一般の部で優勝するまでになります。ただ卒業後は農家を継ぐつもりだったのですが、虫垂炎の手術後に本を読んでいた姿を見た父親が「大学へ行く希望があれば行ったらよい」と言ってくれたため、それから猛勉強をして山梨大学に入学します。

大村博士の学士論文(山梨大学 大村智学術記念館にて撮影)

大学では化学を専攻し、実験とスキーに明け暮れていたそうです。また理科と体育の教員免許も取得し卒業後は山梨県で教員になろうと思ったのですが、生憎卒業した年に山梨県では理科の教員の採用がなく、結局故郷山梨を離れ都立隅田工業高校に教師として就職することになるのですが、ここで先生の人生を大きく変える刺激を生徒から受けることになります。

それはある試験の日のことでした。普段から遅刻しがちな生徒が、この日も試験開始時刻ギリギリに教室に飛び込んできました。生徒の様子を見て回る先生が、その生徒の手先を見たときに強い衝撃を受けます。

「鉛筆を握る指に黒い油の跡が見えた。爪の先は黒く、シャツには汗とあぶらが浮かび上がっていた。生徒は真剣に答案用に向かっている。きっと急いでやってきて、手を洗う暇もないまま試験を受けていたのだろう。

その姿を見て、私は今まで何をやってきたんだろうと恥ずかしい気持ちになった。このままではいけない。もう一回勉強をやり直し、やりたかった化学の研究をしよう。そう思って大学院を目指すことにした。」(『私の履歴書 ストックホルムへの廻り道』より)

ノーベル賞メダル(山梨大学 大村智学術記念館にて撮影)

ノーベル賞は当然のことながら先生の研究成果に対して授与されたものですが、先生は研究者以外にも実学の面では経営者として、また自ら美術館を作ってしまうほど芸術への造詣が深いことでも知られています。先生は北里大学とは別組織の北里研究所を経営面で立て直し、また北里大学メディカルセンター(旧北里研究所付属病院)の埼玉県への移転にあたっては患者を奪われると思う地元医師会と粘り強い交渉を行うなど紆余曲折を経て開院に漕ぎ着けています。

エバーメクチンの分子構造(山梨大学 大村智記念学術館にて撮影)

先生が発見した抗寄生虫物質エバーメクチンに関するメルク社との契約も、先方からは当初3億円で全て買い取るという話があったそうですが、先生は売り上げに応じて北里研究所が特許料を受け取る方式にするべきだと主張して譲らなかったそうです。結果としてエバーメクチンを改良したイベルメクチンの売り上げはヒト用、動物用と併せて今日までの売り上げは総額3兆円を超え、北里研究所が得た特許料は200億円に達したそうで、3億で手を打たなくてよかった!と振り返っています。

このよう早い時期から産学提携を手掛け、単なる研究者としてだけでなく「経営を研究する」という経営学を「研究を経営する」という実学として実践して素晴らしい実績を残されています。先生の著書に「研究を忘れた金もうけは罪悪である。金もうけを忘れた研究は寝言である」(『人をつくる言葉』より)という言葉がありますが、社会の役に立つ研究は必ず経済的な需要があるという信念に裏打ちされているのではないでしょうか。

また先生は美術への造詣も深く、請われて女子美術大学の理事長を14年も務めました。自らも美術品の収集しており女流作家の作品を集めた韮崎大村美術館を郷里に作ります。この美術館は後に韮崎市に寄贈されることになりますが、収支が赤字にならない目処がたってから寄贈したうえ、隣地に温泉を掘削したり蕎麦屋を作ったりとコンパクトながら上質な「美」「浴」「食」をまとめて楽しめるヒーリングスポットにするあたりなど経営者としても腕を振るっています。