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読み札解説「な」

南部 たけのこ 茶葉の里
なんぶ たけのこ ちゃばのさと

写真提供 南部町役場

山梨県の地図を見ると左側(西側)がググッと下がっていますが、その先端にあるのが南部町です。その名のとおり山梨県南端の富士川の両岸に広がっているため役場の標高は約100m、もうちょっと下って静岡県境の標高が約80mと山梨県でもっとも低い場所になります。ちなみに甲府市役所が約270m、富士吉田市役所に至っては約770mもあります。
そのため気温も甲府市より2~3度、ときには5度ほども温かく山の木々も冬でも葉が落ちない照葉樹が多くなります。こうした自然環境が竹林の生育に適しタケノコが名産品となっています。町内の道の駅とみざわにもタケノコの巨大モニュメントがあり、毎年春にはタケノコ祭りが開かれています。

もうひとつのお茶ですが、南部における茶の歴史は古く、武田氏の親族で戦国時代にこの地を支配していた穴山信君が茶園の垣根の修繕について記述した古文書が残っています。ただし商品作物としては昭和30年代から市場性の高い「やぶきた」を中心に栽培されています。
南部の地で茶の栽培に適している理由は、畑が礫(れき)混じりの土壌で適度な傾斜があり排水がよいこと。山間で強い直射日光に当たる時間が短く川霧が柔らかく茶葉を包むことなどが挙げられます。

ところで南部町にはタケノコとお茶だけでない凄い歴史があるのです・・・

南部茶 甲斐のみどり

いきなりですが岩手県盛岡市の市章(市のマークです)をご存知でしょうか?パッと思い浮かぶ方はいないと思いますので写真を載せておきます。ひし形を縦横に組み合わせたものですが、この菱型が武田家の家紋の武田菱にルーツを持っているらしいと聞くと驚く方も多いのではないでしょうか。

盛岡市は江戸時代に盛岡藩の中心地であり領主は代々南部氏でした。そしてこの南部氏こそ甲斐源氏の一派であり、初代光行が父の加賀美遠光より(一説には源頼朝より)現在の身延町から南部町にかけての地を与えられ南部姓を名乗ったことが始まりとなります。

光行の父 加賀美遠光は中世の甲斐源氏のキーマンであり甲府の遠光寺で内藤多仲博士の手掛けた本堂の傍らに眠っています。また光行の次男の実長は「え」の札で紹介したとおり、現在の身延町波木井の領主となり日蓮聖人を身延にお招きしています。

光行の長男の系譜は、何代かは南部の地にいたようですが、鎌倉幕府より奥州の地を与えられると逐次奥州へ移住していったようです。そして奥州移住後も盛岡南部氏を本流に、遠野南部氏、一戸氏、七戸氏、四戸氏、九戸氏といった支族に分かれて東北に根を張っていきました。

この南部氏が繋いだ奥州と甲州の縁は鎌倉時代のことに留まりません。有名な南部鉄器は盛岡と水沢の二つの流れがあるのですが、盛岡の南部鉄器は江戸時代の慶長年間に盛岡藩主の南部氏が、先祖の地である甲州から職人を呼び寄せて作らせたところから始まっています。

盛岡の南部鉄器の職人である有坂、鈴木、藤田、小泉という有力四家のうちの三家は甲州がルーツといわれ、鈴木家の鈴木盛久工房は寛永2年(1625)に鈴木越前守が南部家の本国甲州より御用鋳物師として召し抱えられたとホームページで紹介しています。

南部鉄器 | 鈴木盛久工房 (suzukimorihisa.com)

さて南部藩を通じての山梨と東北の関係は昔のこととして忘れ去られた訳でなく、現在も続いています。それが令和・南部藩です。

   令和・南部藩とは、山梨県南部町、身延町、青森県南部町、八戸市、七戸町、三戸町、岩手県二戸市、盛岡市、遠野市、及び宮古市の10市町が、バーチャル合併により設立した架空の自治体です。ホームページによると領民70万人、面積約48万町歩とのことで鳥取県よりも大きい自治体になります。ちなみに石高は1千万石らしいです。

現在は令和・南部藩となっています。

この10の市町は南部光行公から始まる南部氏の800年に渡る縁(えにし)を大切に、昭和58年から南部首長会議、平成・南部藩と名前は変わっても交流を通したまちづくりに取り組んでいます。小学生の相互訪問や首長の地域づくり報告会などの他「大規模災害時の『南部藩ゆかりの地』相互応援に関する協定」も締結しています。

それにしても南部氏はなぜ甲州から離れた奥州の更に北辺近くに所領を与えられたのでしょうか?これは私個人の推測ですが、南部氏をはじめとする甲斐源氏がかなり力を持っており、場合によっては一族が結束して幕府に弓を引く恐れもあったため、頼朝はその力を分散するために敢えて遠方に配置したのではないかと思います。

初代南部光行公は建久2年(1191)に鎌倉の由比ガ浜を6艘の船で発ち、青森の八戸に着いたとされています。光行公の八戸行は伝説の域を出ないようですが、それでも800年以上前に山国甲州から海を渡り(おそらくこのときに初めて海を見た人も多かったと思います)遠く奥州の地に赴いた人々がいたこと、そしてその縁を大切に思っている人々が令和の時代にもいることは覚えておきたいと思います。