facebookページ

お問い合わせ

読み札解説「へ」

平和を願い あの日の空襲 語り継ぐ
へいわをねがい あのひのくうしゅう かたりつぐ

協力 山梨県教職員組合甲府支部 甲府市教職員組合主催「私たちの甲府空襲記録展2022」にて撮影

昭和20年7月6日の夜、静岡県の御前崎から甲府盆地に侵入した131機のB29爆撃機は、23時40分過ぎに照明弾で街を照らし出すと、約2時間のあいだに970トンもの焼夷弾を投下して市街地を焼き尽くしました。この空襲により1,127名が犠牲になり、市内の家屋の約7割にあたる17,864戸が焼失しました。空襲当日甲府は曇り空だったそうで、もし雲がなければ爆撃の精度もあがり更に犠牲者が増えたのではないかとも言われています。

この日、B29の乗員として甲府空襲に参加した元米軍兵士とコンタクトをとった方によると、B29の乗員だった兵士は「甲府空襲のことはよく思い出せない」と言ったそうです。米軍の俗語に「ミルクラン」というものがあり、直接の意味は牧場を巡回して牛乳を回収することをいうのですが、B29の乗員の間では「退屈なルーチン業務」といった意味合いで使われていたそうです。甲府のような小都市は高射砲もなく、また迎え撃つ日本軍の戦闘機もいなかったため、決められた場所に爆弾を落として帰ってくるだけのミルクランだったのです。

焼失した岡島百貨店。

また山梨県内では甲府の他にも終戦の僅か2日前には米軍艦載機により大月市の都留高等女学校や工場、税務署が攻撃され、死者61名、負傷者42名を数えています。特に都留高女では生徒20名が犠牲になり、その中には空襲の前日に大月に疎開して来た生徒もいたそうです。
その他にも笛吹市や富士吉田市、南アルプス市などでも空襲で犠牲となった方がいます。

戦争の記憶が年々薄れていくなかで当時の惨劇を目にした人から話を聞き、次の世代へ語り継ぐことを大切にしたいと思います。