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読み札解説「ま」

まん丸の 心で彫るは 木喰さん
まんまるの こころでほるは もくじきさん

弘法大師像(山梨県立博物館蔵)

突然ですが47都道府県すべてに行ったことがある方はどれくらいいるでしょうか?交通手段が発達した現代でさえも意外と少ないのではないでしょうか。

今を遡ること約300年前の享保3年(1718年)甲州の山村の丸畑(南巨摩郡身延町古関字丸畑)の伊藤家に生れた木喰上人は14才のときに「野良に行ってくる」と言ってそのまま江戸に出奔。奉公人の苦労を味わい22才で出家。45才で師より「木喰戒」を受け日本廻国を志し、93才で亡くなるまで沖縄を除く日本各地を歩きながら一説には二千体ともいわれる仏像を彫って旅をしました。

この木喰戒というのは米、麦、稗といった五穀を断ち、そのうえ煮炊きをしたものを摂らないという厳しい修行生活を続けることを指します。

その作風は優しい笑みをたたえたものが多く微笑仏と呼ばれ、全体的に丸みを帯びているため温かさが伝わってきます。また上人は仏像を彫るだけでなく多くの和歌を遺しています。

まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸
我心 にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり

実は木喰さんは人々の記憶から忘れ去られていたといえるのですが、没後100年以上が過ぎた大正時代にある偉大な思想家によって再び注目されるようになったのです。その思想家は・・・

木喰上人 自身像

庶民の日常生活の中にある美に注目して今では当たり前に使われている「民藝(民芸)」というジャンルを確立した栁宗悦です。

それは大正12年1月のことでした。柳は中巨摩郡池田村(現甲府市池田)の村長の小宮山清三宅を訪ねます。小宮山は朝鮮陶磁器の収集家であり柳もそれを見せてもらうことが目的のひとつでした。そのときふと目に飛び込んできたのが暗い文書庫の前にあった二体の木喰仏でした。『私は即座に心を奪われました。その口元に漂う微笑は私を限りなく引きつけました。尋常な作者ではない。異数な宗教的体験がなくば、かかるものは刻みえない― 私の直感はそう断定せざるを得ませんでした』

それからはすっかり木喰仏の虜になった柳の呼びかけもあり全国で木喰仏の調査が進み、多くの作品の存在が知られるようになったのです。

五智如来像

ところで諸国廻国をしている木喰さんは90才を過ぎても創作意欲が衰えることはありませんでした。91才のときに甲府の教安寺に七観音を奉納します。それ以降の足取りは詳らかではありませんが、偶然に木喰さんの甥と出会い以後行動を共にしたようです。そしてこの甥が木喰さんの足跡を今に伝える重要な役割を果たすことになるのです。

 

・いつまでか はてのしれさる旅の空 いづくのたれととふ(問ふ)人もなし

・ゆめの世を ゆめで暮らしてゆだんして ろせん(路銭)を見ればたった六文

六文というのは古くから三途の川の渡し賃といわれていますので、それに掛けて詠んだのでしょう。いずれにせよどこでどんな最期を迎えたのか、はたまたどこかの山中で草生す屍となり自然に還っていったのか今となっては知る由もありません。

・木喰もいづくのはてのゆきだおれ いぬかからすのえじき(犬か烏の餌食)なりけり

人々のあいだで木喰さんの面影が少しずつ薄れていくなかで、と或る日、木喰さんの生家にひとりの男がやってきました。彼こそ最後まで木喰さんと共にいたといわれている甥でした。背負ってきた箱は木喰さん自らが背負っていたもので、中には自らしたためた廻国の記録や和歌集などとともに紙の位牌が入っていました。そこには圓寂 木喰五行明滿上人 品位 と書かれており文化7年(1810)6月5日に遷化したことが読み取れました。人々は木喰さんがどこで亡くなったのか、この甥に訪ねたそうですが彼は遂に臨終の地を明かすことはなかったそうです。

・夢の世を夢で暮らすな夢さめて 植えおく種は後の世のため

木喰上人の生まれた丸畑集落の風景