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読み札解説「え」

縁あり 身延にいらした 日蓮さん
えにしあり みのぶにいらした にちれんさん

鎌倉時代に日蓮宗を開いた日蓮聖人は61年の生涯のうち、晩年の9年間を山梨県の身延山で過ごし、法華経への信仰と弟子の教育にあたりました。

千葉県の房総半島の先端にある小湊で承久4年(1222年)に漁民の子として生を受け、16才のときに清澄寺で出家し鎌倉、京都、比叡山、高野山へ遊学。32才のときに日蓮を名乗り故郷の清澄山旭ヶ森より海に向かって南無妙法蓮華経を唱えここに日蓮宗が誕生したのでした。 

聖人は当時の世の乱れを憂い『立正安国論』を著わし鎌倉幕府へ進言しますが、それを権力者への批判とされ、度重なる迫害や襲撃を受けたり、処刑寸前にまでなったこともありました。結局佐渡へ流罪となり3年後に赦されて鎌倉に戻って来た聖人を身延の地に招いたのが、当時身延山一帯の領主だった甲斐源氏の南部実長(波木井実長とも)でした。

日蓮聖人(中央市 妙泉寺)

実長は元々日蓮宗の信者でしたが、赦されたとはいえ時の権力者にも物おじせずに向き合った聖人を庇護したのですから、なかなか漢気のある人物だったと思います。

身延山久遠寺

日蓮聖人が過ごされた御草庵跡

まさに縁により聖人を招いた実長に恩を感じた聖人は「たとえ、いずくにて死に候とも、九箇年の間、心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に建てさ給へ、未来際まで心は身延山に住むべく候」という手紙を実長公に送っています。弘安5年(1282年)母親の墓参と湯治のため身延山を下りた聖人は武蔵国の池上にて亡くなりますが、その言葉どおり身延山に眠っています。