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読み札解説「や」

やすらぎの ミレーの絵のある 美術館
やすらぎの みれーのえのある びじゅつかん

ジャン=フランソワ・ミレー《種をまく人》1850年 山梨県立美術館蔵

縁あってジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875年・文化11~明治8年)の《種をまく人》が山梨に来て40有余年。今ではすっかり山梨の風土に溶け込み山梨県立美術館は「ミレーの美術館」として広く親しまれています。

これは農民の労働や日常を題材にしているミレーの作風が、フランスと日本という距離を飛び越えて普遍的な分かりやすさを持っているため、農業県である山梨県民に受け入れられたからではないかと思います。

1977年9月6日、当時の田辺国男知事が翌年オープンする山梨県立美術館の収蔵品としてミレーの《種をまく人》と《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》をニューヨークのオークションで落札したことを発表しました。もともとはフィラデルフィア美術館にあったものでしたが、たまたまそのオークションが延期され再開までの期間に、山梨県が委託した画商が事前に情報を掴んで資金面の準備をしっかりして臨めたことが勝因だったと言われています。

『種をまく人』は1億687万円、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』は7481万円。当時公立美術館が億の絵を購入することなど、ほとんどなかったため「小さな県の大きな買い物」と言われ全国的な話題をさらいました。県民の間でも賛否両論あり、これだけの支出をするならば教育や福祉、農業振興へ使うべきだという声も議会からはありましたが、田辺知事は福祉や教育と芸術というものは次元が異なり、それぞれが大切であると議会で答弁しています。

ちなみに購入資金をどのように調達したかというと・・・

山梨県企業局早川水系発電管理事務所ホームページより引用

山梨県企業局が長年にわたり水力発電事業等から得た利益を積み立てた会計から企業局発足20周年記念の財産として支出し、購入後は県立美術館に委託する形をとっています。この企業局の内部留保金は、その後も有名な《落穂拾い、夏》を購入するなど継続的なミレーのコレクション形成に大いに活用されています。つまり山梨県の豊かな水資源が形を変えて芸術の源泉になっているともいえます。

ナダール《ジャン=フランソワ・ミレーの肖像》1868年頃 山梨県立美術館蔵

ミレーは1814年10月4日 英仏海峡を望むフランスのノルマンディー地方の小さな村の農家に生れました。家業に専念する傍ら絵を描くことを好んだミレーの腕前を認めた父は、彼に絵描きになることを許したので、20代前半の頃は故郷に近いシェルブールやパリで本格的に絵を学ぶようになります。奨学金の給付も受け、何人かの師のもとで学びますが、国立美術学校では教え方に馴染めずに退学。奨学金も打ち切られてしまいます。フランス王立絵画彫刻アカデミーがパリで開催する公式美術展覧会である「サロン」にも26歳で入選しますが、その後はあまり振るわずに生活のために肖像画や不本意ながらも裸婦画を多く手掛けるようになります。

折しもパリは二月革命後の政情不安とコレラが蔓延していました。ミレーはそのようなパリから離れ、妻と三人の子供と共にバルビゾン村を目指します。当初はバルビゾンでの滞在は一時的なものと考えていたようですが、そこでの風景と農民の生活に触れることで、農民画家としての歩みを始めたのでした。

もともとヨーロッパの絵画は神話や聖書の場面を描いたものが多く、また風景画に農民が登場することはあっても、農民が主役となるようなことはありませんでした。

ジャン=フランソワ・ミレー《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》1857-60年 山梨県立美術館蔵

ところが《種をまく人》は農民の姿とその労働に焦点を当ててカンバス一杯に写実的に力強く描いています。「サロン」に出展されたこの絵を見た人々の中には「この農夫は、まるで土の色で塗られているようだ」と高く評価する者がいる一方、当時の絵画に対する伝統的な考え方とは大きく異なるうえに、種を蒔くという行為について一部の保守層からは支配体制への反抗が主題となっているとか、社会に抗議して散弾をまいているのではないかといった批判が噴出したのでした。

ミレー自身は政治的メッセージをこの絵に託したわけではないのですが、絵画の歴史におけるひとつの転換期となったこの作品によってミレーの名は広く知られるようになったのでした。

ジャン=フランソワ・ミレー《種をまく人》ボストン美術館蔵

ところで《種をまく人》は、同じ構図で大きさもほぼ同じものがアメリカのボストン美術館にも収蔵されています。こちらのものは全体的に明るい色調で指先や種の袋もはっきり分かるように描かれています。X線調査で山梨のものが後に描かれたもので、サロンに出展したのは山梨の作品だとも言われていますが、結論は保留のままとなっています。

なお美術館の敷地は、以前は県の農業試験場があった場所でした。農業だけでなく文化の種をまくという意味からも、《種をまく人》が山梨に来たことに不思議な縁を感じます。このように田辺知事の英断と、山梨の自然環境によって設立された美術館は「種をまく 世界がひらく」美術館として、これからも県民の芸術の泉として多くの人にやすらぎを与えてくれると思います。