名将信玄 眠る恵林寺 鐘が鳴る
めいしょんしんげん ねむるえりんじ かねがなる
塩山駅の武田信玄公の銅像
大永元年(1521)に源氏の名門武田家の嫡男として生れた晴信(のちの信玄)は、20才のときに父信虎を駿河に追放し、信濃を攻略。その結果、領地を追われた北信濃の豪族は越後の上杉謙信を頼り、上杉軍は信濃に出兵し世に言う川中島の戦が勃発します。その後も西上野や小田原にも出兵、今川義元亡き後の駿河も斬り従がえますが、その過程で義元の娘を夫人として迎えていた長男義信と対立し、最終的には義信を自刃に追い込むことになります。
元亀3年(1573)12月、京を目指していた信玄は、後の天下人 徳川家康の浜松城の目と鼻の先を素通りします。このとき家康は、武田軍に戦を挑みますが老獪な信玄の前に大敗します。いよいよ織田信長との決戦に向けて兵を進めるかに見えましたが、信玄の身体はこれ以上の進軍を拒みました。
浜名湖の北で越年し、年明けには野田城を陥しますが病状は回復せず甲斐に戻る途中の信州阿智村で世を去りました。
信玄没4年後の天正4年(1576)に菩提寺である恵林寺において厳粛に葬儀が営まれ、墓所が設けられました。現在我々が見ることが出来る石塔は信玄の百回忌に武田家の遠孫、旧臣子孫592名の浄財をもって建立されたものです。
ところで現代に生きる我々が信玄の言葉を知ることが出来るのは、側近である高坂弾正(春日虎綱)が口述し、それを高坂の家臣が書きとった『甲陽軍鑑』によるところが大きいのですが、甲陽軍鑑は、つい最近まで「後世の創作」とか「偽書」であるとさえ言われていました。
こうした甲陽軍艦の歴史的評価を一変させたのが山梨県立女子短期大学(現山梨県立大学)に赴任して来た酒井憲二でした。酒井は文学者の視点から、歴史学者とは違った視点で甲陽軍艦を読み解き、それが偽書ではなく、高坂の口述を、ほぼ正確に今に伝えている非常に価値のある史料であるということを『甲陽軍鑑大成』として発表して従来説を正したのでした。ではどのようにして長らく常識と考えられていた説を論破したのでしょうか。
それは・・・・
甲陽軍鑑は太平の世の江戸時代に軍学を学ぶベストセラーとなり20種類に近い版が印刷されました。当然時代が下るほど、古い言葉や言い回しが書き替えられていきますが、逆に考えれば古い時代の写本や版ほど当時の言葉がそのまま記されていることになります。
そこで酒井は日本中の図書館や大学、また旧家で所蔵している軍鑑を比較する作業にあたり、ついに最も古く、今はなき原本の姿をより忠実に伝えているであろう写本に巡り合います。そしてそこに書かれている言葉が江戸時代の言葉でなく戦国時代に日本にやってきたポルトガルの宣教師によって編まれた『日葡辞典』で頻出する言葉であること、また当時の甲信地方の方言(げれつことば=下劣言葉)が見て取れることなどを付き留めたのです。
これによって甲陽軍鑑は戦国武士の語り口調を今に伝える一級の史料であるという評価を受けることになりました。ただし冒頭でも述べたとおり江戸時代に様々な写本や版が作られたため、そこに手が加わったことは否定できません。あの有名な「人は城 人は石垣・・・」という言葉も酒井の云う原本の姿を最もよく伝えていると評価されている写本にはないのですが、時代が下がった後の版本では挿入されています。
これをどう評価するのか門外漢である私が断定的なことは言えませんが、どうも信玄の言葉ではない可能性が高いのではないでしょうか。ただ仮に信玄の言葉でないとしても、信玄の哲学を上手に現しているなと思います。
ところで信玄亡き後の江戸時代の甲斐は幕府の天領の時期が長かったのですが、その中で特筆すべきは甲府藩主としての柳沢吉保、吉里親子が治めた時期ではないかと思います。柳沢家の先祖は北杜市武川町柳沢を本拠として武田家、のちに徳川家に仕え吉保は将軍綱吉の側近として530石から甲斐・駿河に15万1200石の知行を持つ大名へと異例の出世をします。
吉保は幕府の大老格という要職にあったため生前に甲斐の国を訪れたことは一度もなかったそうですが、父祖の地の甲斐を思う気持ちは強く甲府城の整備を事細かく指示したり、儒学者の荻生徂徠を甲斐に派遣してその様子を報告させたりしていました。
吉保の子の吉里は、なかなかの文化人で自ら能を舞ったり、甲斐八景を定めたことでも知られています。その八景とは「夢山春曙」「龍華秋月」「富士晴嵐」「恵林晩鐘」「石和蛍流」「金峰暮雪」「酒折夜雨」「白根夕照」で、恵林晩鐘の恵林はもちろん恵林寺のことです。この八景にはそれぞれ和歌が詠まれており恵林晩鐘には『静かなる夕べの鐘の声聞きて見れば心の池も濁らず』という歌が添えられてます。