悲運の武将 勝頼公
ひうんのぶしょう かつよりこう
武田勝頼公画像(法泉寺蔵)勝頼公250年大遠忌
武田勝頼と聞いて皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?
多くの方は「信玄の息子として戦国最強軍団を引継ぎながら武田家を滅亡させてしまった暗君」とか「長篠の戦いで織田・徳川の鉄砲隊に突撃を仕掛けた時代遅れの戦国大名」といったところでしょうか。
それゆえ山梨県民でも武田家滅亡については、ひとり勝頼の資質不足に原因を求めてしまい「やっぱり信玄は凄かった」という風潮が未だに残っているといえます。では本当に勝頼はダメな戦国大名だったのでしょうか?また何故戦国最強といわれた武田家は滅亡してしまったのでしょうか?
よく知られているように勝頼は信玄が自ら討った信州諏訪地方の領主、諏訪頼重の娘を側室にして産ませた子で、成人してからは諏訪四郎神勝頼(すわしろうじんかつより)を名乗り信州高遠城主となります。神(じん)は諏訪大社の神職、大祝(おおほうり)の血を引くことを示し、ひとりの武将として武田家に仕えることが期待されていました。
しかし思わぬことが勝頼を信玄の後継者に押し上げます。それは・・・・
信玄の嫡男義信が今川氏攻略の是非について父親と対立し、自害に追い込まれたのです。次男は盲目で僧として出家しており、三男は早世しているため、信玄の後継者となるべき適齢の子は勝頼だけになってしまいました。
信玄は自分の病を悟り、後継者として勝頼を高遠から甲府の躑躅ヶ崎の館に入れます。このとき勝頼一人が高遠から甲府に来たのではなく、勝頼が高遠の地で自ら形成していた家臣団を引き連れてきます。信玄が存命のうちは表立った対立はなくても、信玄が鬼籍に入ると若い頃より信玄に仕えていた家臣団と勝頼の家臣団との間で何かと対立が起こるようになります。
ただでさえ側室の子というだけでハンデがある上に、更に信玄が遺言で、勝頼の子供の信勝を武田の正式な後継者として、勝頼は信勝が成人するまでの仮の当主としていたため信玄子飼いの譜代家臣は勝頼を軽んじて、勝頼が形成してきた家臣との融和が進まなかったことも無理からぬ話です。
そうした状況でも勝頼は父信玄でも攻略できなかった遠江(現静岡県掛川市)の徳川勢の拠点、高天神城を陥落させています。このとき家康より援軍の依頼を受けた織田信長は兵を差し向けることが出来ませんでした。一方の勝頼は降伏した敵の将兵を助命し、武田の旗下に入りたいものは召し抱え、徳川に戻りたい者は帰ることを許したそうで、その寛大な措置により勝頼は名声を上げた一方で、信長・家康の評判は落ちることになったのです。このとき信長は「四郎勝頼は若輩に候と雖も信玄の掟を守り、表裏たるべきの条、油断の儀無く候」という評価をしています。
さて勝頼といえばあの長篠の戦いに触れないわけにはいきません。よく織田・徳川連合軍の鉄砲三段打ちに敗れたといわれますが、そもそも3万を超える織田・徳川連合軍に半数程度の戦力で挑んでいたのですから、鉄砲云々以前に劣勢だったのです。
もちろん勝頼もそれを知っていたはずですが、それでも戦を挑んだのは三方ヶ原の合戦で家康を破った武田軍の強さを過信していたとか、山縣昌景などの信玄子飼いの侍大将が自軍の不利を勝頼に忠告したが受け入れられず、自ら死に場所を求めて進んで銃火に身を投じたとも言われています。しかし近年では織田・徳川軍の巧妙な戦略によって、武田軍に馬防柵は簡単に突破できると思わせたという説が有力になっています。
前者についていえば信長は戦場まで1日で行軍できるところを3日もかけて移動し、できれば武田と戦いたくないという素振りを見せたり、「武田の騎馬武者はあまりに強いので、いざとなったら逃げられるように柵をこしらえた」とか「長篠周辺の豪族は今は織田・徳川に服従しているが、戦が始まれば武田方に寝返るものもいる」という噂をまことしやかに流して、武田軍がひと押しすれば織田・徳川は総崩れといったイメージを武田軍全体に持たせたことにあるといわれています。
そのうえで馬防柵に突撃せざるを得ない状況を作りだしたことで勝敗が決したといわれています。つまり合戦前夜に徳川の重臣、酒井忠次を別動隊として武田軍の背後の鳶ヶ巣山砦や姥ケ懐砦を奇襲させ奪還します。これで背後に敵の存在を認識した勝頼は、先ずは正面の敵本体に向けて突入させ、いくばくかのダメージを与えない限り背後の敵は討てないと考えて主力を馬防柵に向けます。
この馬防柵も近年の研究と現地での実証の結果、有名な長篠の合戦屏風のような整然とした柵だけがあったのではなく、近づかないと存在が分からないように巧妙に掘られた空堀や土塁、さらには低い高さの柵などを組み合わせて作られたものだったようで、三方ヶ原で徳川に大勝した武田軍にとっては貧弱なものにしか見えず一蹴できると思ったのではないでしょうか。
しかし予想外の鉄砲を射こまれ、退却するにも背後の砦は幾つもが敵の手に落ちているため、「あと一押し!あと一押しすれば、あの程度の敵陣は突破できる」と午前6時から午後2時頃まで波状攻撃を繰り返すうちに予想以上の鉄砲の火力に戦力を消耗し、敗走するに至ったと考えられます。黒澤明監督の「影武者」では、わずか20~30分のうちに騎馬武者がバタバタと斃されていますが、あれは映画の中だけの話と考えられます。
このように長篠の合戦は「鉄砲隊vs騎馬隊」といった単純な構図ではなく、事前の情報戦によって武田軍を戦場におびき寄せ戦いの火蓋を切らせたことと、別動隊の奇襲によって敵の裏をかいた織田・徳川連合軍の作戦勝ちといえます。
そしてこの戦いによって勝頼はジリ貧になって滅亡へまっしぐら・・・というのがよく知られているストーリーですが、ことはそう簡単ではありません。まだまだ勝頼の存在は信長にとっては侮りがたいものでした。
長篠の敗戦から2年後に信長から勝頼に対して「武田と同盟を結びたい」という申し出があったという話も伝わっています。当時信長は上杉謙信との決戦が避けられないと予想し、戦力を集中させるためにも一旦は勝頼と手を組んでおいた方が得策だと考えたようです。
確かに長篠の敗戦は勝頼にとって痛手ではありましたが、戦死した将兵の兄弟子息を取り立てるなどして半年後には曲りなりにも兵力の頭数を揃えて立て直しを図ります。もっとも兵の質の低下は免れようもないですが、それでも有力大名であったことに変わりありません。
またこれは一般にはあまり知られていませんが、上杉謙信亡き後の後継者争いである御館の乱においても勝頼は影響力を持っていました。謙信には実子がいなかったので姉の子で謙信の甥にあたる景勝と、景勝の姉の婿、つまり謙信の姪の婿である景虎が家督を巡って争います。この景虎は小田原北条氏の当主氏政の実弟であったので、その当時北条氏と同盟関係にあった勝頼は、氏政から景虎支援の要請を受け越後へ出兵しますが、結果として景勝の意向に沿う形で中立的立場をとったため、景虎は自刃に追い込まれ、勝頼は小田原北条氏を敵に回すことになります。
この謙信の後継争いにおける景勝支援は勝頼の外交における最大の失敗と評価されることが多いのですが、仮に景虎が勝った場合、上杉と北条の当主が血を分けた実の兄弟となるので、それを警戒したためとも言われています。確かに上杉・北条が肉親の誼で手を組めば勝頼は東から強大な圧力を受けることになるので、勝頼が景勝に味方したこと、少なくとも景虎を積極的に支援しなかった理由は分かる気がします。
さて上杉謙信の後継者争いに介入して存在感を示した勝頼ですが、同盟を結ぶよしみとして景勝側から多額の軍用金の提供を受けていたため、世間からはカネで同盟を買ったと非難されることになります。また織田・徳川の脅威が益々強大化している以上は、お家騒動で弱体化した上杉よりか西側への対処を中心に外交を考えるべきだったといえます。
なお意外なことではありますが、武田家の領土が最も拡大したのは信玄ではなく勝頼の時代でした。ただこれも後継者として内外に認められたいという思いの現れからか、やや無理があったといえます。領土拡張の象徴的存在であった高天神城は、徳川の粘り強い攻撃により周辺の城や砦が陥落して徳川勢力の中の孤島のような状態になり補給路を断たれてしまいます。城将岡部元信は勝頼に救援を求めますが、このとき信長との和議を模索していた勝頼は、家康の背後にいる信長を刺激することを怖れて援軍を送ることが出来ず結局高天神城は落城してしまいます。
これによって勝頼には「援軍の要請に応えることができずに兵を見捨てた」というレッテルが貼られてしまいます。もっともこれは、かつて高天神城が武田方に落ちたとき援軍を派遣できずに苦汁を呑まされた信長による仕返し的な宣伝でした。ただその効果は抜群だったようで勝頼を自刃に追い込んだ信長の甲州征伐においては、高遠城を除く信濃や駿河の諸城が抵抗することなく城を明け渡したことを見れば、やはり信長の長期的な戦略が2枚も3枚も上手であったと言わざるを得ません。
また落ち目の勝頼を親族や有力家臣が見限っていく心情の底には、勝頼は側室の子であり武田の本流ではないという出自に関わる問題があったと考えます。特に身延や南部といった河内地方の領主であった穴山信君は母親が信玄の姉であり、自らも信玄の次女を正室に迎えている名門であるゆえに、武田を継ぐ正当性では勝頼よりか自分の方が上だという意識を持っていました。そのため武田氏を自らが継承して甲斐一国を拝受することを条件に早くから徳川家康に内通していたのです。
こうしたところにも信玄が勝頼を後継者とするにあたっての準備不足、つまり家臣団の人心をひとつに纏めきれないまま勝頼にバトンを渡すことになってしまった信玄の失敗が見え隠れしてしまいます。
天正10年(1582)武田の息の根を止めるべく十分な準備をした織田・徳川連合軍は武田氏の親族衆木曽義昌を調略したうえで木曽、伊那、飛騨、駿河より武田領へ一斉に攻め込みました。このとき信長は政治力を駆使し朝廷より勝頼を朝敵と認定させ、自らの正統性をアピールしています。この点からも信長が最後まで勝頼に対して気を抜いていなかったことがうかがえます。
多方面からの同時侵攻に耐えられないと判断した勝頼は、韮崎の新府城を捨てて大月にある小山田信茂の岩殿城に落ち延びようとしますが、その信茂にも裏切られ笹子峠を越えることが出来ずに、甲州市田野(旧大和村)で嫡子信勝と北条夫人と僅か40人ほどの家臣・従者と共に自刃します。戦国最強を誇った武田家の最期にしては全くもってあっけない幕切れで、信長はじめ周囲の大名も耳を疑ったそうです。
勝頼の首級と対面した信長は「日の本にかくれなき弓取りなれ共、運がつきさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と述べ、その境遇に思いを寄せたと言われています。皮肉なことにその僅か3ヶ月後には信長自身が本能寺において命運が尽きようとは誰もが思わなかったでしょう。
勝頼の首は京都において晒された後に、妙心寺において法要が営まれますが、そのときに居合わせた甲府の法泉寺住職の快岳宗悦により遺髪と歯の一部が持ち帰られ法泉寺の境内に埋葬され墓所となっています。また勝頼が自刃した地には徳川家康によって景徳院が建立されています。禍福は糾える縄の如し、という言葉がありますが甲斐源氏と神代からの諏訪氏の血を受け継いだ勝頼の人生は、まさしく運と不運が織り交ざりあった生涯だったといえます。
甲州人の自分としては武田氏の華々しい側面だけでなく、負の側面にもしっかり向き合い、そこから何かしらの教訓を学ぶことは意義深いことだと思っています。このかるたをきっかけに勝頼と武田家の滅亡を冷静な眼で学んでいただければ幸いです。