昔より 人が行き交う 甲斐の国
むかしより ひとがゆきかう かいのくに
山梨県の旧国名は甲斐の国です。甲斐は「かい」と読み旧仮名遣いでは「かひ」と書くのですが、そもそも何故「かひ」なのでしょうか?これについては江戸時代の国学者本居宣長が、甲州の門弟萩原元克が唱える、山と山の間(はざま)を意味する「峡(かひ)」に由来しているという説を紹介しています。しかし近年、この説は成り立たないことが言語学の観点から明らかになってきました。
これは奈良時代以前の上代の日本語はイ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びエの14音について発音が2種類あったことが古事記や日本書記、万葉集などの漢字表記の研究から分かって来たのです。例えば「雪」は「由伎」と書かれ、「月」は「都紀」と書かれていました。つまり現代では同じ発音の「き」が「紀」と「伎」にしっかりと書き分けられており、相互に入れ替わることが無いため別の発音だと考えられるようになりました。
この研究によると『甲斐』は「柯彼」「歌斐」と表記されています。例えば、聖徳太子が乗って一晩にして富士登山を成し遂げたという伝説のある「甲斐の黒駒」は日本書記では「柯彼能倶盧古磨」となります。一方の『峡』は「賀比」「可比」と表記されており「ひ」の表記が厳密に区別されています。このため他の膨大な事例の集積から両者の「ひ」の発音が違っていただろうと推測して、甲斐の由来は峡ではないという結論に至ったのです。
では甲斐の語源は何か?近ごろ注目されているのが・・・
交わるという意味を持つ「交ひ=甲斐」が語源となったのではないかという説です。
律令制度が生まれた8世紀頃の北海道を除く日本列島は、都のある五畿(大和、山城、河内、摂津、和泉)を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道に区分けされそれぞれに官道(駅路)が走っていて甲斐の国は東海道に属していました。
東海道は都から伊賀の国に入り伊勢、尾張、三河といった現在でも東海地方と呼ばれる愛知県、静岡県をとおり茨城県である常陸の国まで延びていたのですが、甲斐の国はメインルートから大きく外れ、静岡県の御殿場あたりから籠坂峠を越えて忍野から河口湖をとおり御坂峠を越えて国府のあった笛吹市の春日居町に至る甲斐路が都と結ぶ官道でした。
こうして見ると甲斐の国は支線のひとつでしかないともいえますが、ここでも一歩引いてみると信濃の国を通る東山道の存在が見えてきます。つまり都から太平洋沿いに続く東海道と列島の中央を奥州へ向かう東山道とを途中で結ぶ位置にあることが分かります。よって甲斐国は所属こそ東海道ではありますが、東山道とも深くかかわっていたと考えられます。つまり東海道と東山道を結ぶ交わりの位置にあるため「交ひ」であり、それが転じて甲斐になったという説が近年では有力なのです。
また甲斐の国から四方八方へ通じる道が伸びていました。これを俗に甲斐の九筋(くすじ)と言い、その起点は甲府市酒折の山崎三叉路にあったといわれています。
ただ、こうした道は為政者が作ったというよりか、太古から人々が踏みならしてきた道を統治する側が整備したと見た方がより実情に合っていると思います。つまり庶民の生活は狭いコミュニティの中だけで完結していたのではなく、縄文の昔より絶えず外界と接触しながら暮らしていたことが、遺跡からの出土品から分かっています。
その代表的なものが斧や矢じりに使われた黒曜石と装身具などとして用いられた翡翠(ヒスイ)が挙げられます。黒曜石といえば長野県の霧ヶ峰周辺が産出地として有名で、山梨県でも八ヶ岳南麓から富士川下流域まで広く分布しています。ただし近年の研究では伊豆半島の柏峠産の黒曜石が八ヶ岳南麓でも出土しているので縄文時代より信州~甲州~駿河・伊豆を結ぶ交流があったといえます。
時代は下り中世の甲斐源氏は安芸、若狭以外にも遠く当時まだ蝦夷と呼ばれていた北海道にも足跡を遺しています。特筆すべきは甲斐源氏本流の武田信義の弟で笛吹市石和町の河内に所領があったといわれている河内義長は対馬の守護に任ぜられ朝鮮半島の高麗王朝とも接点を持っていました。
このような先人の動きをつぶさに見ていくと甲斐は山国で視野が狭いなどという呪縛が、たいして根拠のないものにしか思えてなりません。