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読み札解説「ぬ」

ぬくもりと伝統つなぐ 印伝・甲斐絹
ぬくもりとでんとうつなぐ いんでん・かいき

甲州印伝の名刺入れと甲斐絹の伝統を受け継ぐ甲州織のネクタイ

印伝とは鹿革を用いた袋や財布、煙草入れといった身の回り品のことです。
16世紀頃に印度(インド)から伝わった応帝亜革(インデヤかわ)という革製品があり、印度伝来だから印伝(正確には印傳)といわれています。

また甲斐絹というのは織物のことです。平安時代に編まれた延喜式には租庸調の庸として布を納める国として甲斐が挙げられているように、甲州は古くから織物が盛んだったことが分かります。

そしてこのふたつは古くから人々の生活の場で愛用されていました。あの弥次喜多道中でおなじみの『東海道中膝栗毛』の主人公の弥次さん喜多さんも印伝を愛用していたようで・・・・

沼津の千本松原でたまたま知り合った侍に「腰に提げたるいんでんの巾着を出だし見せる」という場面があります。結局この印伝の巾着を侍に買ってもらい旅を続ける路銀を得ることできます。もし二人が印伝の巾着を持っていなかったら、古典的名作も沼津で終わっていたかも知れません(笑)それはともかくこうしたことから当時から印伝が庶民にも馴染みがあり、しっかりとした品質のものと認識されていたといえるのではないでしょうか。

続いて甲斐絹というのは甲州の郡内地方で生産されていた絹織物のことです。平安時代に編まれた延喜式には租庸調の庸として布を納める国として甲斐が挙げられているように、甲州は古くから織物が盛んだったことが分かります。ただ甲斐絹イコール甲州と結びつけるのはちょっと早計のようです。

そもそもは安土桃山時代の南蛮貿易によって海外からもたらされた織物を全国的に「かいき」と呼んでいて漢字では「海黄」「海気」「加伊岐」「改機」など様々な表記がなされていたようです。その後江戸時代の甲州では谷村藩主として移封された秋元氏の織物奨励によって都留・大月・富士吉田といった郡内(ぐんない)地方で織物の生産が盛んになります。大消費地の江戸に近いこともあり庶民の間でも「郡内絹」「ぐんない縞」という固有名詞で通用したようで、井原西鶴の『世間胸算用』や『好色一代男』にもそのままの名称で登場します。『好色五人女』では八百屋のお七が処刑されるときに「郡内織」の着物を着ていたと書かれています。

このように江戸時代の人々に受け入れられた郡内地方の織物のなかから輸入品の「玉虫かいき」に似せて作られた「郡内海気」が生まれ、維新後の殖産興業の流れのなかで早くも明治6年(1873)にはウィーン万国博覧会に「海氣」として出品されています。その後「かい=甲斐」という語呂に注目した山梨県初代県令(今の知事)の藤村紫朗により明治11年(1878)に郡内地方で織られる織物を「甲斐絹」と命名されたというのが通説のようです。

明治後半から戦前にかけてが甲斐絹の全盛期で、郡内の中心地の谷村町(都留市)には仲買人や江戸の呉服商の出張所が置かれて大いに賑わったそうです。都留市役所のそばにある旧仁科家住宅は今では商家資料館となり絹問屋を営んでいたときの面影を伝えています。

なお甲斐絹といっても「玉虫(無地)甲斐絹」「縞・格子甲斐絹」「かすり甲斐絹」「高配甲斐絹」「絵甲斐絹」など様々な種類があります。その中でも羽織の裏に使われている絵甲斐絹は脱いだ時にチラッと見える粋なものでした。

さて明治から昭和の初期にかけて農家各戸での養蚕・機織り、その仲買人、都市部への運送と地域全体で生産に関わっていた甲斐絹は全国に流通し、文学作品の中にもしばしば登場します。詩人の金子みすゞの『二つの小箱』という作品にも甲斐絹が登場します。

紅絹だの、繻子だの、甲斐絹だの、
きれいな小裂が箱いっぱい。
黒だの、白だの、みどりだの、なんきん玉が箱一ぱい。
それはみいんな私のよ。

金子みすず (下関市 金子みすず顕彰碑)

このように甲州から遠く離れた山口県の当時まだ20才前後の女性にも甲斐絹という言葉が生活感をもって使われていたことが分かります。ただ甲斐絹も昭和17年頃より衰退に向かいます。その理由は戦前からの人工絹糸の台頭、戦中の国家総動員法による経済統制、戦後においては連合軍総司令部(GHQ)の工業生産の凍結、このとき綿や毛はすぐに生産再開が許されましたが絹織物は昭和22年まで凍結されたようです。

こうした要因が絡み合って昭和24年頃には甲斐絹の生産は終焉を迎えますが、今までの甲斐絹織の伝統の上に、新しい素材を用いて甲州織として世に出ることになります。

折から戦後復興と朝鮮戦争特需の流れに乗り郡内地方には「ガチャマン時代」がやってきます。ガチャマンというのは機織り機をガチャンと一回動かせば一万円が儲かるといわれるほど景気が良かったことを言う言葉で、甲州だけでなく中京地方でもこの言葉が使われていました。

しかし昭和40年代以降は発展途上国の追い上げとプラザ合意による経済構造の変化により日本の織物産業はどこも低迷していきます。それでも郡内地方の各企業は様々なアイデアを出し、また大学とも共同して産地として活力を保てるよう努力しており、現在でもネクタイ生地の生産量は約50%の全国シェアを誇っています。

これからは今までの枠にとらわれずオーガニックコットンを使った衣服や傘、バッグ、タペストリーや御守・御朱印帳まで、幅広い場面で甲州織が人々の生活を豊かにしてくれることと思います。