連歌の生まれた 酒折の宮
れんがのうまれた さかおりのみや
山梨の県都である甲府の隣にある酒折駅は各駅停車しか停まらない小さな駅ですが、実はこの酒折に鎮座する酒折の宮は我が国最古の書物である『古事記』と、最古の国史といえる『日本書記』の双方に登場する由緒ある神社なのです。
景行天皇の嫡子であり東国の平定を任ぜられたヤマトタケルノミコト(日本武尊 倭建命)が、その途中に甲斐に立ち寄り、酒折に留まったときに東征の旅を振り返り誰にともなく問い掛けます。
『新治(にひばり) 筑波(つくば)を過ぎて 幾夜か寝つる』
(筑波の国を過ぎて、ここまで幾つの夜を寝たことだろう)
武尊の周囲にいた家来は顔を見合わせますが誰も答えることができません。すると側にいた篝火(かがりび)を焚く老人がその歌に続けて
『日々並べて(かがなべて) 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を』と歌で答えたのでした。
(日を重ねて数えてみれば九泊十日となります)
このことで武尊はこの老人、古事記では御火焼(みひたき)の老人(おきな)を褒めて東国の国造(くにのみやつこ)に任命したのです。
このときの歌のやり取りのように、ひとりが上の句を詠み、他の者が下の句を詠むものを連歌というのですが、この酒折の宮での日本武尊と御火焼きの老人のやり取りが連歌の誕生であると言われています。
それにしてもなぜ古事記と日本書記の両方に甲斐の酒折が登場するのでしょうか?
そこに古代の大和朝廷にとって重要な意味があったのではないかと考えます。「む」の札で、甲斐は「交ひ」、つまり東海道と東山道を結びつける位置にあることが国名の由来ではないかという話をさせていただきました。そうすると古代の甲斐を支配していた豪族が大和朝廷の傘下に入り東海道と東山道が甲斐によって結びついたことが東国支配の大きなヤマだったのではないでしょうか。
つまり酒折の宮の御火焼(みひたき)の老人(おきな)は、単なる老人ではなく甲斐の豪族の長であり大和朝廷への臣従の証しとして日本武尊の東征に同行し、その帰路に酒折にて武尊を歓待したこと、そしてその時の歌のやり取りがエピソードとして語り継がれ記紀に登場したといえるのではないかと思うのです。
なお酒折の宮の裏手には不老園という梅林が広がっていますが、それを過ぎて登って行くと古天神という小さな祠があり、その昔はそこに鎮座していたといわれています。確かに太古の甲府盆地は湿地帯が多かったと思うので、現在地より標高の高い場所にあったことはありうると思います。
ところで和歌といえば万葉の時代から現代では『サラダ記念日』まで人々に好まれ、『小倉百人一首』にお気に入りの歌があるという人も珍しくありません。ところが連歌となると、有名な作品を思い浮かべることが出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。
そんなことがあってか酒折にある山梨学院大学が1999年より酒折連歌賞を設け、全国から作品を募集しています。私が素晴らしいと思うのは山梨学院大学には文学部がないにも関わらず、地域の文化資源を掘り起こし、再び光を当てて全国に発信し、それを継続していることです。これこそ大学のあるべき姿のひとつだと思います。
酒折連歌賞は毎回、「問いの片歌」が5つ出題されるので、ひとつを選び「答えの片歌」を応募することになっています。ぜひこの機会にご応募してみてはいかがでしょうか。