総理になった 石橋湛山
そうりになった いしばし たんざん
写真提供 石橋湛山記念財団
石橋湛山(明治17年(1884)~昭和48年(1973))は生まれこそ東京ですが、父親が山梨県南巨摩郡増穂村(現富士川町)出身であったため、1才のときに山梨に転居、現在の甲府市立湯田小学校など幾つかの小学校を転校し、甲府中学(現甲府一高)を卒業するまで山梨で暮らしていました。
第55代内閣総理大臣として昭和31年(1956)に任命されましたが、残念ながら健康上の問題から僅か2ヶ月で総理を辞任しています。これは憲政史上4番目の短命内閣であり、湛山自身一度も国会で演説や答弁ができなかったため、総理としての力量は未知数のままでした。
それでも湛山の評価が今も高いのは・・・
主に政界入りする前に東洋経済新報社の記者とし発表した幾多の論説にあります。
自由主義、国民主権、植民地の解放といった今でこそ当たり前ですが、当時では主張するだけで白眼視され、ときに身の危険を感じるような内容でも、権力者や国民世論に迎合せず堂々と論陣を張りました。つまり「自己の立場に対する徹底的智見を立て」て、その場限りの目先の利益に惑わされることなく進むべき道を模索し、世に問うた点にあったと思います。
20世紀前半までは、大国においては武力を背景に自国の利益のため領土や支配地域としての植民地を広げる帝国主義が当然の時代でした。欧州諸国は第二次大戦後も戦後復興のためには植民地の存在は不可欠という姿勢で、オランダなどは日本敗戦後もインドネシアにおいて再び植民地支配を行おうとしたくらいです。そうした「帝国主義=大国の常識」が燃え盛っている大正時代(1910年代)から一貫して植民地を手放すことが日本のためであり、歴史の趨勢を考えると植民地の存在を前提とした帝国主義は立ち行かなくなるという主張をした湛山は、我が国のみならず世界的にも稀有な言論人だったといってよいでしょう。
「ドイツが(中国の)青島をもてば東洋の平和に有害なれども、日本が青島をもてば東洋の平和に害なしという理由如何」(第一次大戦後の青島領有に対する反対 大正3年 1914)
「自己は自己によって支配せられぬ限り、真の意味において生活はないからである。自己なき所にはいかなる善美も意味を成さぬ。民族の生活もまた同様である。故に鮮人(朝鮮半島の人々)は日本の統治下にいかなる善政に浴しても、決して満足すべきはずはない。・・・・もし鮮人のこの反抗(三一独立運動)を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、鮮人を自治の民族たらしむるほかにない」(大正8年 1919)
「今日彼ら(植民地の人々)の自主を、我からむしろ進んで許すか、あるいは明日彼らによってこれをもぎ取られるかという相違に過ぎぬ。・・・・・列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある。(列強が)そを気ままになし得る時期は、さまで久しからずして終わるだろう」(大正10年 1921『大日本主義の幻想』)
「もし政府と国民に総てを棄てて掛かる覚悟があるならば・・・必ず我に有利に導き得るに相違ない。例えば満州を棄てる、・・・支那(中国)が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる・・・朝鮮、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何とはなれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つを得ぬに至るからである。・・・・インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、一たびこの覚悟を以て会議(ワシントン軍縮会議)に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと我が国に懇願するであろう。ここに即ち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救われる」(大正10年 1921『一切を棄つるの覚悟』)
湛山は政府と「国民に」と呼びかけています。これは大衆が長期的視野での思考を苦手とし、耳に心地よい威勢のよい意見に流さやすいかを言論人として身をもって知っていたからだと思います。
また湛山は早い時期から資本とヒト・モノが自由に交流することで、相互に利を成す自由主義経済体制を思い描いていました。このように単なる平和主義者ではなく実利的なエコノミストとして、帝国主義の次に来るべき世界を考えていたことは、資本を牡丹餅に、植民地を重箱にたとえ、日本がいくら重箱をもっても、中に入れる資本がなくては意味がない。重箱は通常の取引によって借りればよい。それよりか日本は学問・技術の研究と産業の進歩に力を注ぐべきだと主張したことからも分かります。
湛山は終戦後の1946年に吉田内閣の大蔵大臣として政治の道に入ります。翌1947年には静岡県の選挙区から衆議院議員に初当選。このとき山梨県から立候補しなかったのは政党の事情があったようです。
一時はGHQ(連合国軍最高司令官総司令官 マッカーサー司令部)の要求に従わなかったため公職を追放されますが、復帰後は通産大臣などを経て昭和31年(1956)12月23日に第55代内閣総理大臣に就任します。
しかし1月に9日間で全国10ヶ所を遊説して帰京した直後に倒れてしまいます。病面は老人性急性肺炎。医師より絶対安静の診断を受け2月25日に総理を辞任してしまいます。おそらく国会にも出席出来ず、答弁も演説も出来ない自身の状況を考え、またかつて凶弾に倒れた浜口首相に対して議会に出席できないのであれば退陣すべしという論説を書いたことがあり、議会に出席できない自分が首相の座にいることは言行不一致であり良心が許さなかったともいわれています。
この点について潔いといえばそれまでですが、もう少し首相の座にしがみつき自身の政策に道筋をつけてからの退陣でも良かったのではないかと思います。事実しばらくすると湛山は健康を回復し外国への訪問も行うまでになります。歴史に「if」はありませんが、湛山退陣後、岸信介が首相に就き1960年の日米安保体制を進めたことを考えると石橋内閣が続いていたらどうなったのか興味は尽きません。ただし湛山は60年安保体制について進め方はともかく内容については「最も適切」だと後から評価しています。
最後に現在猛威を振るう新型コロナウイルスに対してどう立ちまわるべきか、混沌とした世相の中で読み返したい湛山の言葉を2つ紹介します。
「もし或る仕事に失敗しても、他に転任すれば、咎めもなく済ましていられるという仕組みでは、責任の負い手はいない。それで政治も経済も、真剣に運営せられるわけはありません。今日の我が国は現にややさようの観を呈しています。」(昭和16年『百年戦争の予感』)
「政治家の私利心が第一に追及すべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間にわき上る信頼であり、名声である」(昭和43年『日本防衛論』)