硯と和紙も 名産品
すずりとわしも めいさんひん
写真提供 早川町役場 協力 西嶋和紙工業協同組合
現代では硯や和紙を使うことはあまりないかもしれませんが、このふたつは日本の伝統文化を形作って来た道具として欠かせないものといえます。
山梨における紙の歴史は深く、天平勝宝8年(756年)の正倉院文書には、甲斐の国より紙の原料となる麻が納められたという記録がありますが、特定の地名はありませんでした。
現在、山梨には身延町の西嶋と市川三郷町の市川大門という、ふたつの和紙の産地があります。西嶋には全国的にも珍しい和紙作りの伝統に触れることができる「西嶋和紙の里」という施設があるのですが、そこには「夢」と書かれた西嶋和紙が展示されています。
いったいこの書は誰がどこで書いたのか?調べてみると、なんと宇宙空間で無重量の状態で書かれたことが分かりました。これを書いたのは・・・・
宇宙飛行士の若田光一さんでした。書道を趣味とする若田さんは平成26年の元日、国際宇宙ステーションの中で書き初めに挑みたいと言っていました。この計画を知った西嶋和紙工業組合の当時の理事長が若田さんに西嶋和紙を使ってもらうことを提案して、おそらく世界で初となる「和紙の宇宙飛行」と「無重力空間での書き初め」が実現したのでした。若田さんによると無重力空間だと筆に墨汁をたっぷり含ませても全く垂れないそうです。
西嶋和紙の由来は戦国時代に武田家の家臣であった望月清兵衛が永禄13年(1570)に伊豆の修善寺で三椏を原料にした和紙の製法を学び伝えたことにあります。この紙は元亀2年(1571)武田信玄に献上され「運上紙」と呼ばれました。この年が羊(未)年であったため、信玄公は西島の「西」と羊年の「未」の二文字で「西未」の朱印を作り望月清兵衛へ与え紙役人に任じました。
以来明治に至るまで、十数軒の紙漉き職人が軒を連ね、ほぼ戦国時代の技法で紙を漉いていました。現在でも和紙を手掛ける業者は多く、地区の中心には冒頭で紹介した「西嶋和紙の里」があります。
もうひとつの和紙の産地の市川大門は、天台宗平塩山白雲寺の平安時代の旧記に「平塩に九戸、弓削に七戸の紙漉あり」との記録があり、当時紙漉き職人がまとまって居を構えていたことが分かります。市川の和紙は「美人の素肌のように美しい」とも言われ「肌吉」とも呼ばれていたそうです。そうした伝統もあり、市川三郷町の旧市川大門地区では今でも製紙業が盛んで障子紙の生産高は全国一といわれています。
ところで「硯の産地は?」と聞かれて答えることが出来る方は少ないのではないでしょうか。南巨摩郡早川町は日本でも数少ない硯の産地で硯に使う石の産出する場所から雨畑硯(あめはたすずり)と呼ばれています。
その歴史は古く約七百余年前の永仁5年(1297年)、日蓮聖人の弟子であった日朗聖人が、七面山を開いたおりに雨畑川上流の河原で偶然に蒼黒の一石を発見し、その石で上質の硯を作ったのが雨畑硯の発祥であると伝えられますが、もうひとつ、時代は下がって元禄3年(1690)に雨宮孫右衛門という人が早川の河原で黒一色の石を拾ってきて硯にしたのが始まりという説もあります。いずれにせよ雨畑では硯の生産が古くから行われ、大正時代には硯製作に関わる職人が90人ほどいたそうです。
雨畑硯の原石は雨畑真石という、雨畑川の上流で採れる頁岩から彫られています。その特徴は水分の吸収が少ないため水持ちがよいこと、また墨を磨るときにヤスリのような役割を果たす鋒鋩(ほうぼう)という成分が多く含まれているため、墨の磨り心地が良く、伸びの良い墨汁が磨れることで高い評価を得ています。
また雨畑には、結婚や成人の祝いに硯を贈るという独特の文化があるため多くの家に大切にされている硯があります。そうした硯を一堂に展示しているのが硯匠庵です。ここでは雨畑硯の歴史の他、大小様々な、また見ているだけで楽しいユニークなデザインの硯をじっくりと鑑賞できるだけでなく、職人さんの作業の様子も見学出来ます。
ぜひ日本文化を支えた硯の奥深さを学んでみてはいかがでしょうか。