世にも珍し 奇岩連なる 昇仙峡
よにもめずらし きがんつらなる しょうせんきょう
昇仙峡のシンボル 覚円峰
甲府市街を流れる荒川は中流から上流にかけては甲斐市との境界を刻んでいます。平瀬の浄水場を過ぎてしばらく登ると長とろ橋が見えてきます。この橋は大正14年に竣工したアーチ橋で、ここが昇仙峡の入り口にあたります。
このあたりの山は花崗岩で形成されており長い歳月をかけて浸食されて日本有数の渓谷美を作ったのが昇仙峡です。そのシンボルともいえる覚円峰で高さは約180m。その昔、覚円という僧が数畳の広さの頂上で修行したことに由来しています。
さてこの昇仙峡の渓谷美が多くの人の目に触れるようになってから、実はまだ150年ほどしか経っていません。昇仙峡には、一説には平安時代より今に続く羅漢寺があり、修験道者の修行と信仰の場ではありましたが、一般的な人馬が通ることが出来る道は通じていませんでした。そのため巨摩郡猪狩村(現在の甲府市猪狩町)やその周辺の住民は、薪炭を甲府へ売りに行き、米や塩を買って帰るには西側の山を越える難路を通らねばならなかったのです。
そこで猪狩村の名主であった長田円右衛門は、甲府までの生活道路を荒川沿いに開削して、利便性を高めようと新道の開削を行いました。そうは言っても岩盤が重畳する川沿いに道を穿つことは、工事はもとより資金を集めることもそれと同様に難儀したようでした。
自らの畑を質に入れたり、それでも足りない分は近郷の村々や甲府勤番の武士にも寄附を呼び掛けたそうです。
彼の新道開削に懸ける実直な思いは人々を動かし・・・
最終的には様々な身分の2千人以上の人から寄付が集まったそうです。このように武士階級にまで協力者を広げることが出来たのはひとえに円右衛門の人柄に依るところが大きかったのかもしれません。
こうして9年の歳月をかけ、天保14年(1843年)に御岳新道と呼ばれる渓谷沿いの道が完成します。円右衛門は新道の途中に作ったお助け小屋で、草鞋を売ったり通行人に湯茶の接待をして暮らし、安政3年(1856)に62才で没しました。戒名は岩路造身居士。まさに昇仙峡開拓に捧げた生涯といえます。
円右衛門やその同志の尽力で開削された御岳新道ですが、これにより仙娥滝や覚円峰だけでなく渓谷沿いに点々と存在する様々な奇岩が人々の目に触れることになりました。
その中でダイナミックなものは石門です。一見すると岩のトンネルに見えるのですが、よく見ると頭上からのしかかる岩と川岸の岩の間に僅かに隙間があることで、別々の岩であることが分かります。
その石門から下流に向かうと、長とろ橋までの間にいろいろな形をした奇岩が現れます。中には周囲の木々が繁ってきて岩が隠れてしまっているものもありますが、形を想像しながら歩く道のりは楽しいものです。興味のある方は昇仙峡観光協会のホームページをご覧ください。